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感謝の心を育む子育てとは?~子供時代という概念も、幼児教育という概念もなかった中世ヨーロッパ~

今回は、中世ヨーロッパの子育てを紹介します。

中世ヨーロッパの子ども [1]中世欧州子ども

家康が徳川幕府を開いた頃、長崎に住んでいたスペイン人の商人、アビラ・ヒロンは、以下のような感想を書いています。

「日本の子供は非常に可愛く、6,7歳で道理をわきまえるなど優れた理解力を持っている。しかし、その良い子供でも、それを父や母に感謝する必要はない。なぜなら父母は子供を罰したり、教育したりしないからである」。 と述べている。

このヒロンの感想に対して、日本人には、理解しがたいところがあり、少々違和感があると思います。

日本人が父母に感謝するのは、自分を生んでくれてこの世で生を授かったこと、幼児の時にお乳を飲ませてくれたこと、だから「親の恩」があるというのが日本感覚だと思います。

ところが、西洋人が父母に感謝するのは、自分を罰してくれるから自分が成長できる、だから感謝するということである。親が罰してくれないなら成長できないから感謝しなくてもよいというのが西洋の感覚である。
だからヒロンは、「日本の子供は父母に感謝する必要はない。なぜなら父母は罰してくれなかったから」という日本人には理解に苦しむ感想を述べています。

また戦国時代に日本にやって来たポルトガル出身のカトリック宣教師のフロイスも同じように描写している。
「我々の間では普通、鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそう言うことは滅多に行われない。」

フロイトの描写からも、西洋では、日本やエスキモー、インディアンとは、ずいぶん違った子育てをしていたようですね。

それでは、西洋の子ども観がどのようなもので、どのような幼児教育が行われていたのかを見ていくことにしましょう。

西洋の子ども観:驚くことに子供という概念はなく、子供はあえて言うなら「小さな大人」と考えられていました

西洋の中世社会では「子供」期という概念は存在していなかった。これは子供が無視され、見捨てられ、あるいは軽蔑されていたのではなく、子供と大人を分けて考えるということがなされていなかったということを意味している。現代であれば、子供はその特殊性に注目して、大人とは異なる子供特有の服や遊びがある。しかし中世の社会では「子供」という概念が存在していなかったために、子供特有の何かというものも存在しなかったのである。

その理由を考える上で重要なことの一つは、中世において乳幼児死亡率が非常に高かったことである。まずは資料を参照されたい。
小さな子供は死去する可能性があるゆえに数のうちには入っていなかったのである。「私はまだ乳呑み児であった子供を二、三人亡くした。痛恨の思いがなかったわけではないが、不満は感じなかった」と、モンテーニュは述懐している。子供はその生存の可能性が不確実な、この死亡率の高い時期を通過するとすぐに、大人と一緒にされていたのだった。

中世では子供はどんどん生まれ、どんどん死んでいた。したがって、死んで当たり前とまではいかなくとも、子供が死んで親が悲しむということはむしろ異例であるとされていた。このように小さな子供は死ぬ可能性が高いために、人間の範疇には入っていなかったのである。それゆえ家族の一員とも考えられない。そして、子供は生存可能性の不確実な時期(七歳くらい)を越えると大人の一員とされ、「小さな大人」となる。「小さな大人」となった「子供」は徒弟や家庭奉公として他人の家に送り出されることになる。

子供と大人が未分離であったことを理解するために、ここでいくつか例をあげたい。一つ目は服装についてである。私たちの子供の頃を思い出してみても分かるように、いわゆる「子供らしい」服装というものが存在する。男子なら半ズボン、女子ならスカートといったところだろうか。しかし、中世の社会では子供と大人の服装は一緒であり、分化していない。幼児は産衣を外されると、自分の属する身分の他の男性や女性と同じ服を着せられていた。この慣習はおよそ十七世紀まで続くことになる。

次は遊びについてである。現代であったら境界がそれほど明確になっているわけではないにしても、確かに「子供らしい」遊びは存在する。ママゴトや人形遊び、鬼ごっこ等は「子供らしい」遊びの範疇に入るが、麻雀はまずそちらに分類されることはない。また家族以外の大人と子供が一緒に遊ぶことはあまり多く見られない。ところが中世の社会では、ある程度年長になると(五歳くらいから)時には子供たち同士で、時には大人と一緒に、大人と同じ遊びをするのである。このように、遊びにおいても子供と大人は分離していなかったのである。

具体例の最後は「性」についてである。現在では大人が子供に対して淫らな猥談をもちかけることは、一般的には倫理的および道徳的に悪とされる。しかしながら中世の社会では、そのような道徳的気風は存在していなかった。当時は子供を大人の猥談に引きずり込むことはむしろ普通であった。子供を前にしても性的な冗談は頻繁になされ、周りもそれを自然であるとみなしていた。以上の三点を具体例として紹介したが、これらは大人と子供は未分離であったということを理解する上で有効であろう。

 幼児教育:教育機能を持っていたのは家庭ではなく、徒弟修業や家庭奉公であった。このような習慣を持つ社会では子供と大人の分離がなされていなかった

はじめに中世および近代における教育の担い手の比較をしてみたい。まず中世の社会では、教育機能を持っていたのは家庭や学校ではなく、徒弟修業や家庭奉公であった。十五世紀までの中世ヨーロッパでは、子供が七歳になると徒弟や家庭奉公として他人の家に送り込まれ、一方であかの他人の子供たちを自分のところで受け入れるのが一般的な習慣だった。上で述べたように、子供たちはここで「小さな大人」になって大人たちの世界に入っていくことになる。そして「小さな大人」たちはそこで見習修行生活を通して知識と実務経験を積むことになる。教育はすべて見習修行によってなされていた。こうした見習によって、ある世代から次の世代へ直接に伝授がなされていた時代には、学校の占める余地は存在し得なかった。実際、聖職の見習者やラテン語の学習者のみを対象としていた学校、すなわちラテン語学校は、ごく特殊な人びとを対象とする孤立的な例に過ぎない。大部分に共通する慣例は見習修行だったのである。このように、ある世代から次の世代への伝授は、子供たちが大人の生活に参加することで保証されていたのである。上述の子供と大人が混じって生活していることが、ここで理解できるだろう。つまり、このような習慣を持つ社会では子供と大人の分離がなされていないのである。

ただしここで注意しなければならないことは、中世の慣習では自分の子供を他人の家に送り出してしまうということである。自分の子供たちを自分の手元には置かないのである。実際、徒弟や家庭奉公にだされた子供は、大人になって生まれた家に戻ることがあったとしても、必ずしも全員が全員そうだったわけではない。したがって、この時代の家族は、親子の間で深い愛情を培うことができなかったとアリエスは述べている。

子供と大人の分離:西洋では、子供という意識が生まれてくるのは、十八世紀以降になってからです

しかし上で説明したような中世の社会状況は、近代になると一変する。それは「子供」という枠組みが出来上がるからに他ならない。しだいに人びとの心の中に「子供」という意識が生まれてくるのである。ここで大人と子供を分離させる新たな意識が発生する。今まで未分離だった子供と大人が分離してしまうことで、大人とは異なる子供の特殊性が注目されることになるのである。この特殊性への注目は、子供への新たなまなざしを生むことになる。それは次の二つである。

一点目は子供に対する愛らしさからくる可愛がりのまなざしである。これは現在私たちが子供を見て愛らしいと思う感覚と同じであると考えて差し支えない。この感情は当然のこと、家族環境の中や、幼児たちを相手にする際に現れてくる。

もう一方のまなざしは、家庭内部から源を発するものではない。文明的で理性的な装束を待ち望む聖職者やモラリストより発せられるものである。モラリストたちは「自分たちの気晴らしのため」だけに子供を可愛がるだけの大人たちを非難する。彼らは、大人と違って子供は未熟な存在であると考え、理性的である人間に、よきキリスト教徒に育て上げるべきだと主張した。要するに、子供というのは理性的でないから、理性を持った人間に育て上げることが必要だとモラリストたちは論じているわけである。

一八世紀になると、以上の二つのまなざしは結びついて家庭の中でみとめられることになる。こうして、保護され、愛され、教育される対象としての「子供」が誕生する。

子供を神聖なものとしてとらえていて、それゆえ子供を大切にし、子供を中心に据えて生活をしていた日本社会、子供という意識すら希薄で、子供は生産を担う小さな大人と考えていた西洋社会。この日本と西洋の子供に対する意識の違いは、非常に大きなものがあります。

また子供は未熟な存在であり、理性的で、よきキリスト教徒に育てるため、鞭で打って子供を懲罰するという子育ても日本とは大きな隔たりがあると思います。

 

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