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感謝の心を育む子育てとは?~儒教文化圏での伝統的な子育ての状況と意識~

今回も、『②海外の子育ての状況や意識』の一つとして、清朝末までの子育てと韓国の李朝時代(1393-1894)の子育てを紹介します。

言うまでもなく、中国、韓国は、エスキモーやインディアンと違って、何千年にわたり戦争を繰り返してきました。そのたび王朝が変わり、最も激しい私権闘争を繰り広げてきた国々です。子育てもその影響を強く受けている思われますが、これらの国々での子育てが、どうのように行なわれていたのか見ていきます。
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中国の場合は、礼教主義(礼儀作法、道徳を身につけさせること)による教育が清朝末に至るまで続き、李朝時代の場合は,子どもの教育において、長幼の序(年長者と年少者との間にある秩序。子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむというあり方)が極めて厳格に守られていました。

「子ども観に関する比較教育文化的考察」より

儒教文化が,とりわけ近世の東アジアの教育文化に及ぼした影響はたいへん大きいと言える。その例として,「男女七歳にして席を同じくせず」といった成長段階における一連の教育内容をはじめ,「弱冠」といった年齢の区切りによる人生の儀礼などの共通的な面があげられよう。

しかし文化の類型から見れば儒教文化という共通の土壌を持ちながらも,そこで培われた子ども観とそれに関わる子ども文化の特性は,必ずしも一致しているものではない。日本の場合は,江戸時代(1603-1867)の儒学者らによって子どもを大人と区別した存在として認めようとする動きが見られており,また貝原益軒の『和俗童子訓』(1710)に代表されるような比較的緩やかで自然的な子どもの発達を援助しようとした子ども観が芽生え始める。これに比べ,中国の場合は「礼教主義」による教育や教科書,教育内容がほとんどかわることなく清末に至るのであり,子どもの教育において「長幼の序」が極めて厳格に守られてきた李朝時代(1393-1894)の場合は, 1920年代に入って,始めて児童の人格をめぐる問題がとりあげられるようになるのである。このように,近代以前の中国と韓国の子ども観に比べ,日本の子ども観は大きく言って東アジア世界の子ども観の類型に属しょうが,児童期を大人になるための準備期としてとらえ,その独立性を認めなかった清末までの中国とは区別されるのであり,そして伝統社会を解放以前までとする韓国の子ども観とも異なると言えよう。

中国の儒教の礼教主義に見る子ども観と遊び

清朝末までの中国では、子どもをどのように扱い,理解していたのだろうか。

教育目標は、五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)で示されているように,現世の秩序を保ち,人間関係の調和に重点を置いた儒教道徳が目指す人間関係のあり方を身につけることであった。したがって子どもはあくまでも大人になる準備段階にあるものとして大人らしく振舞うこと,すなわち,大人の行動規範の体得に務めることこそが子どもの本務でもあった。

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儒教の礼教主義は,最も朱子学が威勢を振っていた東アジアの近世において児童少年向きの儒教入門書として広く読まれた『小学』(1187)によく表れている。この『小学』は儒教倫理を集約したもので,教えの根本は日常生活で実践すべき五倫にあることを強調していることから,結局理想とされる人間像も「立志」を通して,聖人の教えを学び聖人君子たる徳を備える道徳的人間にあったのである。

こうした儒教の礼教主義は, 子どもに大人としての振舞いを身につけさせることが大事であって,子どもの自由な活動は制限されたものはもちろん, 子どものもつ独自性をみとめようとしなかったことを意味する。当然ながらそこには,子どもとは常に教育されるものであるから戯れ遊ぶことを好む子どもへの理解がなかったことを表しているのである。

儒教で見られる遊びとは,儀礼ないしは教養といった非常に狭い意味としてとらえられており,礼を本位とする儒教の礼教主義に違う博奕などは禁止されたことは当然なことであったと思われる。

ところで, 王陽明の『伝習録』(16世紀)に至っては,児童教育に対し括目に値する変化を見せている。すなわち,彼は,「昔の教育者は人の行うべき倫理を教えた。後世になると(古典を暗唱する)記誦や、(文章の功拙を争う)章詞の風俗が起こって, (人論を教える)先王の教育は亡びてしまった。今児童を教育するには〈古の教育にたち帰って〉孝弟・忠臣・礼儀・廉恥(の人論)を教えることに専念しなければならない。その心をつちかい育成する方法としては,詩を歌うように誘ってその気持ちを解放し礼法をならうように導いて態度振舞をきちんとさせ,読書するようにそれとなくさとして知能を開発すべきである。……大体児童の心情は(自由な)遊びを楽しんで,拘束をきらう。(それはちょうど)草木が芽生えはじめた時には,のびるにまかせれば,四万に枝を張るが,ねじまげれば衰えしぼむようなものである。今児童を教育するのに,かならずその行こうとする方へはげましてやり,その心を喜ばすようにすれば,その進歩は自然おし止めることができない」 と,遊びを楽しむ子どもの心情を理解しそして生まれつきの本能を導き出すような,自然な教え方を勧めている。

そして, 「近ごろの児童教育に従う者たちは,毎日ただ句読点のつけ方や課業をやらせるばかりで, (児童に)課業をきちんとおさめることは求めるのだが,礼法で導くことを知らないし, (知的に)聡明であることを求めながらも,善導で心を修養させることを知らないのである。鞭で打ったり縄で縛ったりして,囚人を扱うようにするから,彼らは学舎を牛獄のように思って入ろうとしない。……これは児童を悪に駆り立てながら善を行えと求めるようなもので」あると, 当時の児童教育の矛盾を鋭く指摘している。

李朝時代における子ども観と遊び

では,李朝の儒学者は子どもの遊びをどのように見ていたのか。李朝社会は、教育の目的は、倫理道徳に重点を置いて善人を養成することとし,その最終目的は聖賢の境地に達することであった。

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当時の教育を担っていた儒学者たちは,子どもヘの理解と配慮に基づいた教育論は提示せず、あくまでも子どもを大人の延長としてとらえようとしたのである。こうした教育思潮は,通過儀礼の面から見ても幼年期,少年期を区別する儀礼はなく,青年期若者の年齢階梯を中心とした年齢集同の未発達を生み出し,子ども期不在といった子ども文化の特徴を露呈したものと言える。そして「長幼の序」における上下関係の礼儀がきわめて重視されるなかで子どもは男女の分別を教える七歳より大人として扱われ,大人社会に組み込まれていったと言える。『撃豪要訣』の「接人」章には,年齢が己よりも倍以上であれば父のように,また十年以上であれば兄のように任えるように教えていることも「大人の小型」としてとらえた子ども観を窺わせるのである。

例えば,子どもの能力に合う分量を教えること,朗読の際には精神を集中させ, 音節に抑揚をつけて心情をゆったりとさせることなどであり,訓育においても,子どもを厳格に取り締まったり寛大に放任してはならず操縦を適切にすること,子どもの才能,品格の高下にあわせて詳細な解説を与えること,そして覚えが鈍くても忍耐と同情を示すこと』などがそれである。

李徳懲は,学問に励むべき子どもにとって戯れ遊ぶことは百悪をもたらすものとして厳しく戒めている。彼は「子どもの習癖はみんなが読書を厭い働くことを恥じらいながらも戯れ遊ぶことは勧めなくてもよくでき,教えなくても夢中になる」と厳しく戒めている。

このように李朝の子ども観は,前に述べたように朱子学による崇礼主義によって教育も子どもは大人と想定され,「大人の小型」としてそれにふさわしい厳しい教育がおこなわれたのであり,したがって子どもは常に大人の規制によって正しく導かれるものとされ子どもの自由な活動を認めようとしなかったのである。

しかし,以上で見られるような李朝時代の子どもの様子が礼教主義のなかでただ抑圧されるばかりの暗い面だけで、あったとは思わない。また,厳しい教育はあったにせよそのなかでも子どもたちは明るく戯れ遊んでいたことが,上記の『士小節』のなかからも十分察せられるのであり,また,正しい行いを持ち,好奇心に満ちたいたずらや,楽しくあそんでいる李朝時代の子どもの様子が,外国人の記録にも鮮明に描かれていることを付け加えておきたい。

エスキモーやインディアンの子育てには、教育するという意識は、あまり見られませでしたが、中国、韓国では、庶民にまで浸透した儒教という教えがあり、この教えに沿って厳しく子どもを教育してしていたようですね。

次回も、『②海外の子育ての状況や意識』の一つとして、北欧の子育てを紹介します。

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