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感謝の心を育む子育てとは?~江戸時代における子育ての状況や意識~

江戸時代から明治初期に来日した外国人たちは、日本人の子育ては、自分たちの国の子育てと随分と違うと述べるとともに子どもの遊びだけでなく子どもの教育に目を見張ったと言っています。ロシアの海軍少佐ゴロブニンは「日本人は天下を通じて最も教育の進んだ国民である」とまで述べています。

これほどまでに欧米人をとりこにした江戸時代の子育てについて、その実態に迫ってみたいと思います。

おんぶ6 [1]

【家庭内での子育て】
イギリスの女性旅行家、紀行作家のイザベラ・バードは、日本の家庭を細かく観察しています。

かつて日本は美しかった [2]」より

「ここでは今夜も、他の幾千もの村々の場合と同じく、人々は仕事から帰宅し、食事をとり、煙草を吸い、子供見て楽しみ、背におって歩き回ったり、子どもたちが遊ぶのを見ていたり、藁で蓑を編んだりしている・・・残念ながらわが英国民は、おそらく他のどの国民よりも、このようなことをやっていない。・・・英国の労働者階級の家庭では往々にして口論があったりいうことを聞かなかったりして、家庭は騒々しい場所となってしまうことが多いのだが、ここでは、そういう光景は見られない」

江戸日本人はなぜそんなに子供を可愛がったのか。民俗学者の宮本常一氏(故人)はエコノニミー(子供本位の呼称法)のあるところは非常に子供を大事にする風習がある、と述べています。一郎くんのお父さん、花子さんのお母さん、という具合に本人の名を呼ばずに子供中心の呼び方をするのがそうだといいます。また、イザベラ・バードは4歳の少年の書道を見せられました。「神童」を紹介されたのです。バードは「私はこれほど大げさな子供崇拝の例を見たことがない」と書いています。いわば「早熟」な子なのですが、それを「神童」として見立てていることにバードは驚いています。江戸日本人は子供を崇拝する、子供を神聖なものとして捉えていたわけです。宮本常一氏は現代で電車に乗ると子供を必ず掛けさせるのは子供に対しての「神聖観」が残っているからだと指摘しています。

幕末から明治にかけて来日した外国人の一人であるE・S・モースの「日本その日その日」に次のように書かれています。

朝から晩まで幸福な江戸の子供たちと高い就学率 [3]」より

 世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供たちは朝から晩まで幸福であるらしい。(略) 小さな子供を一人家においていくようなことは決して無い。彼らは母親か、より大きな子供の背中にくくりつけられて、とても愉快に乗り廻し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるもののすべてを見物する。日本人は確かに児童問題を解決している。日本人の子供ほど,行儀がよくて親切な子供はいない。また、日本人の母親ほど、辛抱強く、愛情に富み、子供につくす母親はいない。だが、日本に関する本は皆、この事を、繰り返して書いている。

日本では、小さな子供が、その好奇心を満足させるように、母親の背中から世の中を見せているという観察です。外国人の目には、庶民の赤ん坊であっても、社会見学をさせるほど、日本人は教育熱心と写っていたようです。褒め過ぎで、こちらが恥ずかしいですが、当時の外国人の間では、日本社会の特質として共通理解であったことがわかります。

それは外国人の考え過ぎであって、かなり良く解釈したとしても、単に「子供の好奇心を満たしてあげたい」というだけのこと。しかし、それが寺子屋の普及率の高さとも関連しているような気がします。

もちろん、現代と比べると、(当然のことながら)当時の子供の置かれた環境は、劣悪です。しかし、多くの外国人の目から、(他国と比べて)そのように見られていたこと、そして、徳川幕府は、特に何をしたでもないのに、文部省や教育委員会が存在していたでも無く、教育評論家が「ああだこうだ」論じていたわけでもないのに、江戸時代の日本は、当時の世界水準から見ても、高水準の教育普及レベルに達していたことは、日本社会のリーズナブルな特質を表していると思います。

【寺子屋での子育て】
寺子屋とはどのようなものであったか見ていきたいと思います。

寺子屋3 [4]

江戸時代の民間の教育 [5]】 より

  現代のように就学期間や修める教育課程が決まっていないため入門する年齢と修学期間は入門者の自由だった。早い場合は五歳、普通は七か八歳で入門した。男子が十二、三歳、女子は十三、四歳まで通った。就学期間は六年ぐらいだろうか。

だいたい午前八時から午後二時まで。昼食は十二時。給食はなく、家に帰って食べるか持参した弁当を食べた。現代の学校のように全ての授業時間に出席する必要はなく、各家庭の都合により通える時間に通い、家の用事か御稽古事へ行く時間になると帰った。

入門料と授業料は一律ではなく、生徒の親の社会的地位と経済状況に応じて、支払える額を支払う。江戸時代には教育費が家計を苦しめる心配はなかっただろう。

最初にいろは四十八文字の読み書きと文字の意味、数字を教えた。短文の読書きを教え「名頭(人の姓の最初を漢字で書く)」、「名字尽くし」や手紙文と商用の送り状、請取状など実用的な文章ものを学んだ。

地理に関する教育は江戸の寺子屋であれば、江戸の町名を読書きしながら「江戸方角尽」、江戸の町の生活の行事について習う「江戸往来」で江戸の地理や風習を学んだ。東海道のことは「東海道往来」、日本の地理は「国尽くし(アメリカなど外国ではなく山城、武蔵など旧国名)」を用いて地理を学んだ。

その後、庭訓往来や漢文の基礎である千字文などを教えた。最後に百姓の子供には「百姓往来」、商人の子供なら「商人往来」と相場についての本、職人の子供なら「番匠往来」など親の職業に合わせた教科書を使い、入門者が将来就く職業に必要な知識を学んだ。寺子屋の教科書は七千種類(そのうち女性用は千種類あり)あり、寺子屋の備品で使いまわしされていた。

生徒の年齢と親の職業が異なり、通う時間が生徒により異なるため一律に教えるのではなく、個別指導を行った。庶民が武士の師匠に習うことはできたが、算盤の代わりに唐詩選や千字文など漢文を教える。学問好きの父兄の家以外か本人が学者を目指していなければ、生活と直結しない内容だけに通うことは少なかっただろう。礼儀作法を身につけさせるのも寺子屋に期待されていた事柄である。

【江戸時代の子育てに関する教化活動】
こうした独特の子育ては自然に生まれたものではなく、江戸社会の中で、多くの識者が子育ての経験知を蓄積し、かつ広めてきた結果である。

石田梅岩 [6]

国柄探訪: 江戸の子育てに学ぶ [7]」より 

  たとえば、石田梅岩を始祖とする石門心学は、18世紀半ばには全国で教化活動を展開し、日常生活を送る上での心得を熱心に説いた。その中には、子育ての心得も含まれていた。

石田梅岩の門下に、慈音尼蒹葭(じおんに・けんか)という尼僧がいた。慈音尼は、我が子を心を尽くして育てるのが人の道である、と説いた。

自分の子だからと思って、愛に溺れて心を尽くさなければ、天命に背き、災いのもとになる、「わが子なりと思い、勝手するは、人欲の私なり」「わが子と雖(いえど)も天の子にして、我に『育てよ』との天命なり。天命を重んずる心からは、子に慈愛をつくさずんばあるべからず」と教えた。

自分が作った子供なのだから、溺愛しようが放任しようが、自分の勝手である、というのは、誤った私心である。子供は天から「育てよ」と命ぜられた「授かりもの」であり、親としてその天命を果たすのが人としての道である、というのである。

◇7.「随分可愛がり、愛するのがよい」

石門心学の普及で中心的な役割を果たした手島堵庵(てじま・とあん)は教化対象を子供にまで広げた人物である。宝暦9(1759)年に著した『我つえ』では、あまりに厳しく育てることは良くないとして、

どうしてかというと、「愛しているから、このように厳しくするのだ」と思う子は少ないものだ。結局、ひがむようになり、恩愛が失われ、親子の間が疎遠になり、不孝者になることが多い。随分可愛がり、愛するのがよい。

しかし幼少の時から、嘘や偽りを言うこと、この一事だけは決してさせてはいけない。幼いときは何をしてもかわいいから、嘘を言っても知恵があると思い、褒めそやすようなことは大変よくないことだ。小児の時から、嘘だけは、絶対に悪いことだと思うようにさせなさい。

江戸時代後期の国学者・橘守部(たちばな・もりべ)は、文政11(1828)年に著した『侍問雑記』で、「子は手塩にかけて親しく養ってこそ親しみも増し、親のほうから近付いて睦まじくしてこそ尊ばれもする」と書き、次のような態度を勧めている。

その子の幼い時から、朝晩、側近くに親しく寄せて、おかしくもない子どもの話も、面白そうな様子で聞き、年齢相応のことを話して聞かせ、楽しみも共にし、打ち解けた遊びも共にするようにして、大きくなってからも、ひたすら親しみ睦まじくすることを、親の方から習わせるように。そのようにすれば、悪いことがあった時に叱っても、たまのことだから、快く聞き入れるだろう。

次回は「海外の子育ての状況や意識」を扱います。お楽しみに!

 

 

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