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【コラム☆感謝の杜】子供の興味や好奇心を活かしてあげていますか?~大人の誤った価値観に基づく子育てが社会を壊す

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充ち足りた日々も学びから☆+゜コラム☆感謝の杜(かんしゃのもり)です。

ただただ愛らしくて、愛しくて、有難い存在の赤ちゃん。
受け入れる大人たちは、この世に生まれてきてくれたこと、ただただこの命が在ることに感謝し、目が合うようになっては喜んで、自分で起き上がるようになっては驚いて、つかまり立ちするのが可愛くて、自力で進めるようになったことに感動して。
そうやって自分の力で出来ることが増えていくことは、親やまわりの大人にとっての最大の喜びです。

なのに、いつの間にか、

「なんでそんな遊びをするの!」
「そんなことに意味はないから、勉強しなさい!」
「習い事の時間だから、これはお母さんがやっておくから!」

と、子供たちが持っている“興味や好奇心を満たしたい気持ち”を押さえつけてしまっていませんか?大人の言うことをよく聞き、聞き分けのよいことを優秀と評価していませんか?
大人たちのそういう姿勢は、大きな可能性を秘めた子供たちの心も身体も、そして、社会をも壊してしまうことになるのです。

■優秀児の壊れ方
すべての生物には学習するという本能があります。人間の赤ちゃんもお母さんのお腹にいる間から学習を始め、生まれた瞬間から猛烈な勢いで学習します。寝たままの状態から起き上がり、つかまり立ちをし、やがては立って歩くようになる。その瞬間を目の当たりにしたお父さん、お母さんの感激はさぞかし大きいことでしょう。
もちろん、赤ちゃんは親を喜ばせるために立ち上がるのではなく、本能に突き動かされて精一杯の力を振り絞って立ち上がるのです。そこには何の打算も計算も働いていません。この本能の部分をそのまま壊さなければ優秀児は壊れることはありません。

ところがある時期から彼らは親の顔色に反応するようになります。
もちろんそういうことが必要な場合もあります。赤ちゃんが危険なものに近づことうとしたら、親は怖い顔をして声を荒げて叱らなければなりません。言葉を理解できない赤ちゃんには叱られている内容がわからなくても、自分が何かいけないことをしたことに気づき、その情報は確実に脳に刻まれます。これは必要な躾です。

しかし生活全般、学習全般にわたってこれをやってしまうと、本能の部分がどんどんすり減ってしまい、自分の興味の赴くままに何かを取り込むことができなくなってしまいます。
自分の興味や好奇心を満たして叱られるより、親の顔色をうかがって相手の喜ぶ行動をとったほうが彼らにとっては楽だからです。これは動物に芸を仕込むのと同じです。
好き好んで火の輪の中に飛び込むライオンはいません。飛び込まないと叱られるから、飛び込むとほ褒美がもらえるから、仕方なしに飛び込んでいるだけです。本能の部分を殺し、力ずくで支配しているからです。同じ方法論を人間の子どもに用いるのはもちろん大間違いです。

■従順さと優秀さは両立しない
世間一般では、我を通して叱られる子どもより、大人の顔色をうかがい、相手の喜びそうな答えを素早く用意できる子どものほうを優秀と判断する場合が多いようです。でもこの場合「優秀児」というのは「お利口なワンちゃん」と同程度の意味合いしかありません。
(中略)

飼い犬はご主人にほまられ、頭をなでてもらったり餌をもらったりするのが犬好きなので問題はありませんが、人間の子どもに同じことをやらしてはいけません。自分なりの判断を放棄し、他人の言うことを鵜呑みにする子が優秀なわけがありません。

「優秀児の壊れ方」というタイトルで話を進めていますが、実は「優秀」というレッテルを貼られた時点で、その子は壊れているのです。この場合の「優秀」とは、大人の顔色をうかがうのがうまいということで、壊れているのは学習するという本能です。

言い換えると、「大人の顔色をうかがうのがのがうまい子は学習するという本能が壊れている」というのが私の結論です。
 リンクより

大人の顔色をうかがい、相手の喜びそうな答えを素早く用意できる子どもは一体どうなるのでしょうか。
大人の誤った価値観に基づく子育てが社会を壊すとはどういうことなのでしょうか。

これらを象徴するような存在がいます。
それは、学歴エリート=気のきく事務屋です。

■「気のきく事務屋」たちの暴走
事務屋がリーダーになる・・・・・・。しかし、それは日本経済が右肩上がりで、やるべきことをやれば企業が成長拡大していく情況の中で通用する話でした。
日本には欧米先進国という師匠がいましたので、大枠としては欧米から学べばなんとかなったのです。
しかし日本経済が成熟し、もやは自分で考えないといけなくなった途端、日本経済は傾き始めます。企業が今まで同じことをしてもまったく稼げなくなると、リーダーには新しい「判断」が求められます。厳しい局面では「決断」もしなくてはなりません。

「判断」や「決断」というものには、「求められている答え」はありません。自らの頭でゼロから何かを考え出さねばいけないのです。それは「気のきく事務屋」にとっては未知の難問でした。
できないのではあれば「できない」と言えばいいのですが、やはりプライドが邪魔をしてそれもできません。結局、彼らは自分たちの持ち味である「高速事務処理能力」「バランス感覚」でこの危機を乗り越えようとします。

その象徴は長銀の末路でしょう。
「バブル崩壊」という言葉が現実味を帯び始めていた1991年、長銀では頭取・会長・さらに関連会社もすべて同期(長銀一期生)という異例の布陣を敷きます。みな東大法学部出身は言うまでもありません。
その結果「全体の不良債権がいくらになるのか誰も知らない」とう異常な銀行経営が行われたのです。これは頭取は銀行本体、会長が関連会社というふうに完全に経営が分断されてしまったからでした。
「気のきく事務屋」にリーダーを任せると、どんでもない暴走が始まるという実にわかりやすいケースではないでしょうか。

■学歴エリートと高級官僚
バブル崩壊前後で、このような「事務屋の暴走」が日本中で起きました。そこでようやく「事務屋はどんなに気がきいてもリーダーに向いていない」という当たり前のことに気づきました。これが、東大卒の社長や役員が1995年から2010年の間で激減した最も大きな理由です。

そんな経済の世界では、お払い箱になりつつある「事務屋」がいまだに我が物顔でこの世の春を謳歌している業界があります。それが「官公庁」です。
彼らは、先ほど申し上げた通り、他の道で成功する確率が低いことを知っているがゆえに官公庁の「エリートコース」を選んでいるのです。
彼らは官僚という仕事が、自らが鍛えぬいてきた「高速事務処理能力」と「バランス感覚」をもっとも活かすことができる世界だということを早くから見抜いているのです。

国家公務員試験Ⅰ種の合格者が「キャリア」と呼ばれ、要するに「試験が受かれば出世できる」というわけです。
「学歴エリート」というのは子供のころから「どうすれば出世できるのか」という問いに対する「答え」が明確に出ている「キャリアバス」が非常にしっかりくるのです。

国のために尽くしたい、人の役に立ちたい。そのような志望動機を高級官僚の方々がお持ちだということを全否定するつもりはありませんが、多くの「学歴エリート」たちが官僚を目指すのは、「霞ヶ関」が自分自身の生き方を肯定してくれる世界だからということが大きいのです。
リンクより [2]

いかがでしょうか。

原発問題、経済破綻、肉体破壊、精神破壊…。「国も、政治も、経済も、医療も、食物も信じられない」「将来が見えず不安」という声は大きくなり、「既存の仕組みは頼りにならない。自分でなんとかするしかない」という意識が生まれています。

しかし、自分でなんとかするにも、学者やマスコミ、巷の書籍などの既存の考え方は、さらに行き詰まるだけで使い物にならず、役に立ちません。

新たな仕組みや考え方を創造するために「自らの頭でゼロから何かを考え出す」必要が出てきたのです。もちろん「求められている答えを用意する」という思考では全く歯が立ちません。

このような状況下で「自分で考え、生き抜く力が必要だ」と感じている人がどんどんと増えています。また、親たちも「子供が自分の頭で考えていけるように、子供の興味や好奇心を活かしてあげたい」という意識へと変化してきています。

早速、教育現場では「子供の興味や好奇心を活かしてあげたい」という社会的な期待に応え、さまざまな取り組みが生まれているようです。そういった事例もご紹介したいと思います。

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