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【コラム☆感謝の杜】 西洋式育児から日本式育児へ

 

充ち足りた日々も学びから☆+゜~コラム☆感謝の杜(かんしゃのもり)です。

これから、充実した日々を過ごすために、役に立つコラムを入れていきます、乞うご期待ください。

昭和40年から保健所で母子健康手帳とともに配られるようになった「赤ちゃん」という本に、「赤ちゃんは1人で寝かせましょう。添い寝もいけません。だっこも、おんぶも程ほどに・・・」と日本式育児を否定し、西洋式育児を推奨する内容が書かれていました。これを最初に手にした親から生まれた子どもが、大学に通い始めた昭和60年頃に出来た言葉が「新人類」と「プッツン」でした。コミュニケーションが取れず、感情を抑えられない子ども達でした。

寺子屋2 [1]江戸の子供 [2]

日本式育児とはどのようなものであったのか!「朝から晩まで幸福な江戸の子供たちと高い就学率 [3]」というブログを紹介します。

江戸時代後期の、農村まで含めた江戸府中の子供の就学率は、70~86%。
同時期のイギリスの大工業都市では20%。
 
 江戸時代は、義務教育があったわけではなく、幕府が、教育向上政策をとったわけでもありません。ただ、アジアの某国では、「庶民がなまじっか知識を持つと権力者に反抗する」と、教育を禁じていたようですから、それに比べると、環境は整えられていたかもしれませんが、庶民の教育意欲には、不思議を感じます。
 
 その理由は、《供給》《需要》の双方にあります。
 
 まず、《供給》側ですが、
 当時は、庶民のために公立学校はありませんでしたから、寺子屋(今の私塾)に子供たちは通っていました。江戸だけで1500の寺子屋があったそうです。しかし、庶民が多額の学費を払えるはずがありませんよね。
 当時の寺子屋の経営は、経営者のボランティア。つまり、先生は、謝礼程度はあったものの、他の収入で生活を維持しながら子供たちを教えていたそうです。江戸は武家人口が高かったので、教育熱心な武士が、町民を教えていたことが多かったそうですが、全国平均では40%は庶民の先生だったそうです。
 もちろん、自由競争なので、人気の高い寺子屋に生徒は集まり、低い寺子屋は廃れてしまいます。寺子屋の先生は、努力の割に、金銭的にも割が合いません。
 しかし、寺子屋の先生となることは、メリットがあったのです。
 先生になれば、人別帳(住民登録)には「筆道指南」など明記でき、高級な職業として尊敬を集めていたのです。優秀な人なら、将軍に拝謁を仰せつかることもあったそうです。
 現代社会では、ほぼ「社会的成功=経済的成功」ですが、
 江戸時代は、武士は身分が高いのに経済的に貧しいことが多く、金持ちと言えば、身分が低い町人、という(今の感覚では)不思議な社会だったのですね。色んなカタチで「満足」を実現することができたため、金銭的に見合わない「庶民への教育」に取り組む人が多く出たのです。
 
 では、もう一方の《需要》側です。
 
 江戸時代は、庶民は生まれてから死ぬまで、移動の自由もなく、他の世界を知ることも許されず、食うや食わずやの一生であった、という暗黒史観にたつと、庶民に教育はまったく必要はなかったことになります。おかしいですね。
 おそらく、生活は苦しかったのでしょうし、飢饉のときには餓死者も出たででしょう。しかし、それは一面で、他の一面もあったはず。重層的に見なければいけません。
 
 江戸時代には、周期的に「伊勢参り」ブームがあったのですが、例えば、1830年には、500万人もの参詣者があったそうです。当時の日本の人口3000万人の、6人に1人です。すごい数ですね。伊勢に行くという口実があれば、どの道を通るのも自由でしたから、事実上、庶民にも観光旅行の自由があったのです。旅行者は、帰宅すると、家族はもちろん、近隣の人たちにも、旅の話をするでしょうから、江戸時代の人の知る世界は、それほど狭くなかったのではないでしょか。
 しかし、現代と違い、交通が発達していませんでしたから、何か月もかかる旅になります。旅行費用はどうしたのでしょう。などと考えるのが、現代人の感覚です。当時は、無銭旅行も多かったのです。さらに驚いたことに、前掲著によると、ある年の京都所司代の調査で、伊勢参詣者の3分の1が、満5歳から15歳までの「抜け参り」の子供だったそうです。「抜け参り」とは、親や奉公先に黙って旅に出ることで、当時は、大人になるための通過儀礼のような感覚もあったのかもしれません。しかし、現代日本で子供がこんなことをすれば、やがて、資金が底をつき、都会の繁華街で悪い罠にかかり、という転落人生、というイメージです。
 江戸の子供たちは、驚くほどアクティブです。

 その背景にあったのは、(水戸黄門のドラマであるように)道中の民家が旅人を気軽に泊めさせてあげる、という社会です。泊を提供した民家にとっても、旅行者の道中の話が、娯楽の提供になったのです。
 明治になって、伊勢への無銭旅行をしようとした人が、文明開化の世の中では、金がなければ旅行も出来ないことを思い知らされて、国元に逃げ帰ったという話もでてきますが、
 現代社会のように、「お金がないと何も出来ない」社会では、《お金がない=貧しく惨め》ですが、かつては、お金の必要性が低かった時代があったのです。
 だとすれば、「教育=経済的成功」のため、という考えかた自体が、そぐわないのかもしれませんね。視野が広がれば、自然と教育意欲も増すもの。
 
 次の文章は、幕末から明治にかけて来日した外国人の一人であるE・S・モースの「日本その日その日」から引用したものです。

 世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供たちは朝から晩まで幸福であるらしい。(略) 小さな子供を一人家においていくようなことは決して無い。彼らは母親か、より大きな子供の背中にくくりつけられて、とても愉快に乗り廻し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるもののすべてを見物する。日本人は確かに児童問題を解決している。日本人の子供ほど,行儀がよくて親切な子供はいない。また、日本人の母親ほど、辛抱強く、愛情に富み、子供につくす母親はいない。だが、日本に関する本は皆、この事を、繰り返して書いているから、これは陳腐である。

 日本では、小さな子供が、その好奇心を満足させるように、母親の背中から世の中を見せているという観察です。外国人の目には、庶民の赤ん坊であっても、社会見学をさせるほど、日本人は教育熱心と写っていたようです。褒め過ぎで、こちらが恥ずかしいですが、当時の外国人の間では、日本社会の特質として共通理解であったことがわかります。
 それは外国人の考え過ぎであって、かなり良く解釈したとしても、単に「子供の好奇心を満たしてあげたい」というだけのこと。しかし、それが寺子屋の普及率の高さとも関連しているような気がします。
 
 もちろん、現代と比べると、(当然のことながら)当時の子供の置かれた環境は、劣悪です。しかし、多くの外国人の目から、(他国と比べて)そのように見られていたこと、そして、徳川幕府は、特に何をしたでもないのに、文部省や教育委員会が存在していたでも無く、教育評論家が「ああだこうだ」論じていたわけでもないのに、江戸時代の日本は、当時の世界水準から見ても、高水準の教育普及レベルに達していたことは、日本社会のリーズナブルな特質を表していると思います。

 

 

 

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