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どうなる?私たちの生活(4)~農(漁)村共同体の建設~

『どうなる?わたしたちの生活』をテーマに、経済破局後の生活像を追いかけてきた本シリーズ。
今回で最終回です。

第1回 [1]で、私権社会の終焉から、“期待に応える充足”を最大の活力源とする共認社会への大転換を、
第2回 [2]で、ゼロ成長を基本としつつ、人々の期待に合致した経済運営の姿を、
第3回 [3]で、共認充足をベースにした、活力溢れる社会統合システムのかたちを展開してきました。

ここで見えてきたのは、「経済破局」とはいっても、決して暗い社会が待っているわけではなく、
むしろ、過去5,000年に渡る私権(私益)にまみれた社会の破局→終焉によって、
それ以前の人間本来の共認充足を土台とした、元気で明るい社会へと回帰する可能性が開かれる、
ということです。

そこで第4回は、下記の投稿から、この可能性へ向かうための足掛かりになる課題を固定します。

『潮流予測4 農(漁)村共同体の建設』 [4]

「最後に、最も時間のかかる課題として、農村共同体の建設がある。
これは、単なる農の振興策にとどまるものではなく、「教育をどうする?」というもっと大きな問題に応える必要があるためである。」

私達の生活がどのように転換するのか、そのイメージが見えてくるはずです☆

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■詰込み教育から自然や仲間への同化教育へ

まず、子供たちの教育の転換イメージです。
これまでの教育の目的は、より高い偏差値の学校へ通うため、そして、より収入が得られる仕事に就くためでした。
つまり、私権を獲得するためのエリート育成教育。ただ、これがもたらしたものは、社会閉塞や、精神崩壊。
とても健全な心や人間関係(社会)を育む教育とはいえません。

ではどう変えていくのか!?

市場拡大によって、生殖と生産という二大課題が分断され、生産活動を失った密室家庭は、教育機能をほぼ全面的に喪失してしまった。その結果、勉強しか出来ない子や、周りとの関係が作れない子や、引きこもりetc、精神破壊が深く進行中である。
どうするか?だが、もともと子供たちの健全な心を育むには、自然に触れる作業が最も適している。従って、農漁業を手伝いながら学ぶ体制を作ればいい。そのためには、農漁村に全寮制の幼・小・中・高校を作り、5才以上の子どもを密室家庭から引き離す必要がある。

それは親に対しても、「自分の子ども」という私有意識からの脱却を図ってもらう試みとなる。
従って、手順としては、まず高校から始め、中学・小学・幼稚園の順で進めてゆくこととなる。

いま、家庭に教育機能が無いのはその通りであるが、なんで「自然に触れる作業が最も適している」といえるのか!?
それは、対象世界の大きさ、広がりがポイントです☆

『超越存在としての自然』 [5]

子供達が、「野外活動」  [6]を通して大きな気づきを得てくれましたね。
自然の中で、その圧力を受けて取り組んだからこそ得られた認識ではないかと思います。
農業体験や自然体験を通して、人が癒しや感謝の充足感覚を覚えたり、共認回路が再生していったりするのは、自然というものが、私達人類を遥かに超えた存在=超越存在だからではないでしょうか。自らを超えた存在に対しては、抗うことも、拒むことも、無意味でしょう。ただひたすら、その現実をありのままに受け入れ、その対象に期待し応望してゆく姿勢に、自ずとなってゆくのではないでしょうか。(超越存在との同化の感覚が、癒しの原点かも知れません。)

人類は自然外圧を科学技術によってほぼ克服したとはいえ、手付かずの自然の中に生身で放り出されれば、まともに生きてゆけないのは今も同じでしょう。だからこそ、その超越存在感をもとにして、仲間の肯定視や正義感も育まれてゆくし、それが自分や自分達といった狭い枠を越えて、世代を超えて自然の中で生かされているという感覚に、繋がってゆくのではないでしょうか。

つまり、「超越存在としての自然」に触れることで、①現実をありのままに受け入れ、対象へ同化する姿勢が身につくこと。
そしてこれが、②仲間への肯定視を育み、この肯定視をベースとした期待の掛け合い(共認圧力)の場に身を置くことができるためです。

超越存在たる自然と、異年齢(高校~幼稚園)という仲間の中で揉まれる場は、
親に囲い込まれ、一面的かつ歪んだ教育圧力に晒され続ける「密室家庭」の場と、大きく異なります☆


■全ての国民の生活拠点を農(漁)村共同体に

次に、仕事(生産集団)の転換イメージです。

それと平行して、農(漁)村への人口移動農(漁)村共同体の建設を進める必要がある。
はじめの5年間は、統合機関の交代担当制によって生じる学者や官僚や公務員(教師を含む)やマスコミの社員、あるいは仕事が半減する金融機関の社員たちを再教育して、農(漁)村共同体の建設にあたってもらう(もちろん農作業をしながら)のが良いだろう。

さらに最終的には、民間企業の半数を農(漁)村の近くの適地に移し、全ての国民が農村共同体を拠点として農共3年・企業3年ぐらいで交代担当する体制を目指す。
労働人口は、いまの農(漁)業が10%として、建設業の7割、運輸販売業の6割、製造業・金融業・その他の4割を、農(漁)村近くに移せば、農村:都市の労働人口は5:5ぐらいになる。

なお、将来は、全ての工業製品の耐用年数を2~3倍に上昇させる(例えば、耐用年数に応じて売り上げ税率に大きな差をつける)ことによって、物の生産・運送・販売およびそれに付帯する金融その他のサービスに要する労働時間は、1/2~1/3に圧縮される。もちろん、必要資源量もゴミの量も半分以下となる。

子供同様に、大人にも教育が必要なのです。
「学者、官僚、公務員、マスコミ、金融機関」で働く者は、先に挙げたエリート教育よって生まれた私権社会の勝者。(シリーズ第1回「社会統合を担う受験エリートは、実は”無能”だった」 [1]

だからこそ、子供と同様に“超越存在たる自然”に身を置き、再教育を受けることで共認回路(相手と同化することで得られる充足感)を再生させることが必要なのです☆言い換えれば、「活力源を“自分の満足”から“仲間との充足”に転換させる」、っていうこと。
『社会における有能・無能とは』 [7]

また、経済破局を期に起こる「食糧価格の暴騰」に対して、策を講じておく必要があります。(シリーズ第2回 [2]
食糧価格を沈静化させるためには、国家が全食糧を買い上げ、全国民に配給することになります。なので、それに応じた生産量確保のため、農(漁)業就労人口を増やさなければなりません。
果たして、そんなことが可能なのでしょうか?

実はこれは簡単なこと。
無駄な仕事を減らしていけばいいのです。

「無駄な仕事」って何か? 例えばこんな話しがあります。

『家電製品10年寿命説』 [8]
特に欲しいものがない時代なので、新しい機能を搭載した新商品を発売しても、いくら広告をうっても買ってはもらえない。とすると、買い替えざるを得ない状況と作り出す=ある程度の年数で壊れる商品を作るしかなくなる。すぐ壊れると、商品の問題性を問われるので、10年くらいは持つようにする。

『すぐに壊れる物干しグッズ』 [9]
PPやPEといったプラスチックは紫外線に弱く、元々屋外使用に適さない材料である。それでも使われる理由は「安く作れる」こともあるが、「必ず壊れて買替え需要を喚起できる」というのが本音だろう。

『物理的陳腐化とパイロットのボールペン。わざと耐用年数の短い製品を設計』 [10]
パイロットボールペンの目立たない部分にわざと切れ込みのようなものを入れて一定期間使い続けるとその部分が壊れるように設計してあります。

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どうでしょう?
誰も期待していない、無駄な時間の使い方、無駄な資源の使い方、無駄な頭の使い方。
これらを、農業や介護といった皆の期待する仕事に回したほうが、良いに決まっています。

また、度々揺らぐ“食の安心”についても、「農共3年・企業3年の交代制」といった、仲間同士による信任生産(利益追求ではなく、仲間の期待に応えて生産)のかたちでしか、本来得られないものなのです。
「食料確保」という共有課題を通じて、全ての国民が農(漁)村共同体を拠点とした新しいライフスタイルに変わっていくのです☆

■未明課題の追求が、新たな進化を促す

この農村共同体へのライフスタイルの変化によって、今の就労時間は大きく縮小されます☆

従って、食糧も含めて物的生産に必要な、国民の労働時間は5時間程度に縮小する。
ここで、仮に農共と企業との交代担当制において、企業では従来どおり8時間働くとすれば、農村共同体での労働時間はわずか2時間となる。いったい、残りの時間は何をするのか?
これは、まったく新しいスタイルの生活が始まるということであり、大胆な頭の切り替えが必要になる。
実現論では、共認圧力に基づく評価競争の社会になると予測されているが、おそらく余裕時間は、「集団をどうする?社会をどうする?」という統合課題をはじめとする、さまざまな未明課題を追求する時間となり、次の共認時代は頭脳進化の時代になると期待したい。

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周りや自分を見ても分かるように、もう既に、誰も「みんなで話し合う場なんて要らない」 「答えを紡いでゆく場なんて要らない」とは言えない現実になっています。また、「答えを出せる人はかっこいい」「自分もそういう人になりたい」という評価 共認も、潜在意識では既に成立していると思います。
『判断の土俵とは、人々の潜在思念が作り出した共認圧力の場』 [11]

なので、これまでの狭い職業意識(専門意識)の枠をとっぱらって、あらゆる未明課題を追求してゆく姿勢が求められます。
真っ当な社会期待(みんな期待)がかかる農村共同体、その共同体が集まる社会においては、常に評価競争の圧力に晒され、「みんな期待するものは何か?」を常に探索することになります。

「自分からみんなへ」と意識潮流の転換が進むなかで、応えるべき対象領域は、限りなく広がっていく。
まさに『頭脳進化の時代』となるわけです。

私達の生活はこのように変わっていきます☆

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