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社会を変える『トモダチづくり』(6)~新しい潮流4 言葉それ自体が引力を持ち得ない時代~

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みなさんこんにちは

前回の記事「社会を変える『トモダチづくり』5~社会不全⇒認識欠乏の蓄積~ [2]」で、
増大していく社会不全は、解脱や誤魔化しの言葉では捨象することはできない!ことが明らかになりました。

では、この社会不全を突破する『答え』を見つけることはできるのか?

サークル 、メル友 、SNS(mixi) のつながり等
若者のトモダチづくりから、この可能性をさらに追求していきたいと思います。

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新しい潮流4 言葉それ自体が引力を持ち得ない時代 [3]

30年来の思想不信によって、古代以来連綿と精練されてきた言葉群が、全てダメになり、捨象されて終った。新しい言葉=実現論も荒削りで未だ普遍性を獲得していない。現代は、言葉が崩壊し、言葉が捨象されてゆく時代であり、そこでは新しい言葉も弱い力しか持ち得ない。

例えば、若者は明らかに言葉を捨てて仲間に向かっている。とすれば現状は、言葉よりも仲間(共認orつながり・広がり)の方が引力が強いという事は、疑う余地がない。だからこそ、知人連鎖でなければ言葉を伝えられず、人と答えが一体のまつりでないと人は集まらないのだ。

しかし現在は、言葉よりも仲間ではあるが、どうも共認充足に先行して、人そのもの(の引力)に向かっている様にも見える。

そこには、共認欠乏(本源収束)と外向欠乏(外向収束)の二つの引力が働いている。

共認機能は、原理的に人が居ないと作動しない。従って、共認充足に先行して先ず人を求めるのは、原理的に当然の様に見える。しかし、通常、周りに人(友人や仲間)が居るのが当然の状態なのであって、まず人を求めるというのは異常である。実際、携帯やネットやサークルで相手を求めるのは、関係閉塞型に多い現象であり、共認充足している実現派はネットで相手探しなどしない。

結局、多数派に刻印された異常な共認非充足の状態が、共認充足に先行して人を求める根深い人欠乏を作り出し、人こそが(共認充足に先行する)最高価値であるという空気をも作り出している。それは事実であるが、しかし、それが人類史上の異常事態(但し、間違ってはいない)であることも、忘れてはならない。

他方、外向欠乏(社会探索)が、分かり難い構造認識よりも、先ずは具象的で分かり易い人に向かうのは、当然で、これは正常である。そしてそこでも、その人の言葉ではなく、行間にある潜在思念(その人が何を感じ、何をしているか、あるいは熱意や自信や感性、一言で云えば“輝き”)に注目している。

要するに、人こそ外向基調の最大の対象であり、かつ、共認機能に先行する最高価値である。何よりもまず人という、この人欠乏こそ本源収束の基軸を成すもの(あるいは真の民主主義の基礎を成すもの)であり、集客欠乏やひいては演場社会の基礎を成すものである。

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若者のトモダチづくりは、社会不全を発端として、共認欠乏及び外向欠乏が生起し、まず人(仲間)収束へと向かっています。

通常なら身近に仲間がいるはずですが、身近な仲間を超えたトモダチづくりに向かっているところが特徴です。
これは身近な仲間との関係で充足できていない関係閉塞型に多く、身近な仲間以外との充足を求めてサークル、メル友、SNS(mixi)等へのつながりに強く収束しています。しかし、これで非充足が解消される(共認欠乏が満たされる)ことはありません。元々の問題(関係閉塞)から逃避しているだけに過ぎないからです。

他方で、外向欠乏(社会探索)から構造認識よりも分かり易い人に向かっているのが実現派です。その人の言葉や行動を目の当たりにして可能性を感じてつながりを作り、その人の言動の背後にある潜在思念(心の有り様)に同化して、謙虚に学んでいこうとしています。

また人収束(仲間収束)は歪な形として、いじめられる人が決まっていない輪番制のいじめとしても現われています。

次回は今回に引き続き

①なぜ輪番制のいじめが生まれたのか?
②さらにそこからトモダチづくりはどこに向かっていくのか?

をさらに深く追求していきます♪

最後まで読んで頂いてありがとうございます☆

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