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2011年04月03日

【男の居場所はどこにある】 ~私婚関係から私権の共認へ(2)~

東日本大震災における被害の甚大さが次第に明確になってきていますが、そんな中にあって、被災地を含むどの場所でも秩序がしっかりと保たれ、みんなで助け合いながらがんばって再興していこうとしている姿は、この国日本だからこそ成り立つものだとしみじみ感じます。

村落共同体が解体され、近代化と同時に頭の中は私権社会一色に染まってしまった日本ですが、心の奥底には、本源性が決して色褪せることなく綿々と残り続けているということがよくわかります。

この日本人の姿に理解ができず、驚きを隠せない西洋人達ですが、彼らも元々は同じ人類として本源性は持っていたはずです。私権意識一色になってしまった彼らの精神構造が一体どのようにして形成されてきたのかを解明することは、これから新しい社会を切り開く上でとても重要な位置付けとなります。

前回の記事では、牧畜部族から遊牧部族へと生産様式が変化し婚姻制度が転換したことによって、集団が母権から父権へと転換したこと、それによって自我が芽生えやすい状況になったことを見てきました。

今回は、「交易」の登場以降に注目し、引き続き私権意識の形成過程を見ていきたいと思います。

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(画像はコチラからお借りしました)

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3/13なんでや劇場(3) 交易によって何が変わったのか?より

●遊牧部族が交易に転じると何が変わるのか?

交易に転じると、損得・利益という意識が登場する。元々食えないから交易を始めたわけだから、そこには部族の命運がかかっている。こうして部族全体が利益収束し、利益拡大(蓄積)が部族の統合軸となってゆく。これを唯利収束(唯利統合)と呼ぶことにする。

また交易は損得のやり取りであり、利益第一に染まっていることも相まって、著しく他者に対する攻撃性を磨いてゆく=高めてゆく。こうして唯利収束と攻撃性故に、他部族を騙してもよいということになり、騙しと交渉術に長けてゆくようになる。

それだけではない。遊牧兼交易部族は貴重な財を運ぶ。利益第一となった彼らにとっては財が獲られないかが一番の心配事となり、利益第一が故に警戒心を膨らませた彼らが武装するのは必然であった。

元々狩猟部族であった彼らは、遊牧集団であったころから狩猟or猛獣から身を守るために弓矢や槍などを携帯していたが、それはあくまでも他動物を対象としたものであった。ところが、交易部族にとって武器は同類(人間)を対象としたものに変わる。従って、弓矢のような目立つ武器ではなく、ナイフ・短剣といった目立たない武器が登場したであろう。ナイフや剣は戦争が始まって開発されたのではなく、既に交易集団の段階で携行されていたと考えるべきであろう。

逆に言うと、ナイフや剣がいつ登場したのか? その時期までには既に交易武装集団が登場したということになる(☆これも調査課題)。

彼らは、元々は遊牧集団で、それだけでは食えないので遊牧集団兼交易集団兼武装集団という三位一体の集団と化したわけだが、武装集団化したことによって力の原理が全面に出てくることになり、その結果として、父権転換が加速される。遊牧男集団の「女よこせ要求」から父権転換した段階では、母権VS父権の綱引きがあったはずだが、遊牧集団が交易を始めた段階では一気に父権に転換したであろう。

そもそも遊牧集団にかかる生存圧力は非常に高いということが前提です。生きるために何としても食糧を手に入れるということが課題でした。こちらが差し出す製品を農耕部族である相手が喜んでくれれば、穀物等を手に入れることができる。つまり、どんな手を使ってでも相手を喜ばせる必要があったのです。それが「騙し」であろうとも。

3/13なんでや劇場(4) 略奪集団であるが故に自我の塊になった西洋人より

●しかし、ここまでは世界共通で、コーカソイドもモンゴロイドも変わりがない。

では、白人と、セム族・ハム族や北方モンゴロイドを分かつものは何か?

白人の特質を形成した直接的な原因は何か?

その半答えも『実現論』にある。

『遊牧派生の邪心集団による掠奪闘争は極めて激しい容赦の無いものとなり、皆殺しが常態となる。従って、仲間を皆殺しにされて一人二人と生き残った者たちは憎悪と警戒心の塊となり、共認基盤を失って終ったことと相俟って、全面的にかつ強く自我収束する。そんな者たちが生き延びる為に寄せ集めの新たな掠奪集団を形成しては他部族を襲うという形で、数百年に亙って掠奪闘争が繰り返された。そんな生き残りの末裔が、西洋人である。それ故に、本源共認の基盤を根こそぎ解体して終った西洋人は、本源的な共認収束力≒集団収束力が極めて貧弱で、自我収束が極めて強い。しかし、自我だけでは共認を形成できない。そこで彼らは、専ら自我に基づく本源風の架空観念に収束し、架空観念で共認を形成する。

皆殺しでなくても、略奪闘争から逃げ延びた者たちや逃亡奴隷たちは、山賊になるしか生きる術がない。つまり、西洋人の出自は略奪集団に他ならない。彼らは部族or氏族を解体されてしまった者たちであり、各人の出自はバラバラで、利益獲得という一点の目的の下に集まった人口集団である。

皆殺し、そこから逃げ延びたとしても部族も氏族といった集団は解体されてバラバラな「個」にされてしまい、自分以外は全て敵という警戒心の塊になってしまった。そして集団共認を形成するとすれば、近代思想などの架空観念(騙し)で統合する人工的な集団にしかなり得なかったのです。そこにあるものとは契約関係と規律による抑制だけであり、共認充足の可能性は完全に閉ざされていたのでしょう。

3/13なんでや劇場(5) 西洋人の精神構造と異常な性意識より

●西洋人の異常な性意識

例えば、女に対する怯え、「良き父親観念」、純潔主義と不倫のタブー、貞操帯、魔女裁判、禁欲主義、男女同権をはじめとして、枚挙に暇がない。

前提条件として、人類は一貫して母系であり、牧畜集団においても母権制であった。女主導であれば性はオープンになる。その象徴が、1000年前のインドの男女和合の場を神殿の壁一面に描いた彫刻であり、アラブの女も一夫多妻で囲い込まれてはいるが挑発性は高く、略奪闘争以前はインドと同じく性文化が豊かであっただろう。これは縄文人→日本人も同様である。

それに対して、西洋人の性意識は異常である。
なぜ、そうなったのか?

略奪集団は男集団であり、女は現地調達するしかない。つまり略奪婚となる。男たちの女に対する発想は、力の原理で女を調達して、あとは家畜と同じように女を飼い馴らすというものである。この力の原理で支配するという発想は今も全く変わっていない。

ところが、ここに根本的な矛盾がある。
力の原理は男の原理であり、女が主導する性原理は全く別の原理であって、力で押さえつけられるものではないのである。従って当然、女たちの反乱が起こる。具体的には不倫や子供の囲い込み(子供を人質という意味で「子質」)。

それで西洋人の男たちは反省すべき所を、あくまで力の原理で女を支配しようとする、その根性は変えなかった。その発想は今も全く変わっていないようで、レディーファーストも男女同権も良き父親も全ては、女を支配しようとする意識の裏返しである。これは、本音では家畜視している他人を支配するために平等を口にするペテンと同じ関係である。

「力の原理で女を支配」という意識を背景にして、性を汚らわしいものとかタブー視したりする意識と、かつての日本の「夜這い婚」に見られるようなおおらかな性とでは180度異なります。日本の家庭でもかつては家父長権というものがありましたが、私権の衰弱と共にあっという間に消え去ってしまいました。これは、本源性と相反する西洋観念を、意識の根底では完全に受け入れることができなかった、ということを表しているのではないでしょうか。

日本人の意識の根底に流れているものはやはり仲間、男女の共認充足に他ならず、この共認充足が母体となって集団が統合でき、男と女の役割が成立しているるのだと思います。

”男の居場所”とは、この本源性をベースにしたところにあるような気がします。

投稿者 hiroaki : 2011年04月03日 List   

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