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新たな時代の教育制度の提言に向けてシリーズ-3~現代の学校を取り巻く諸問題の原因構造と次代の可能性

皆さん、こんにちは。

現在の教育にも密接に繋がる「戦後の公教育」をテーマにした『新たな時代の教育制度の提言に向けてシリーズ3』、その第5回をお届けします。

前回 [1]までは、戦後「学校教育法」及び「教育基本法」に先駆けて配布された、教師のための手引書である「新教育指針」を取り上げました。この「新教育指針」には、「日本人に自虐史観を植付ける」というアメリカ→GHQの思惑が鮮明に現れていましたね。そこには、徹底的に日本人の共同性を解体し、頭の中の理想=比現実に傾斜し(実現することがない)近代思想や、私権主体としての個人の意思を重視し、社会のことなど考えないように仕向ける教育のあり方を示していました。

今日は、現在に戻って、「現代の教育の問題点とその原因」について考えてみます。

これは、ここ数回に亘ってネットサロンの教育グループで、将来の教育者を目指す学生さんにも参加いただいて追求したものです。

現代の学校教育の問題点を参加者全員で出し合って、それをKJ法を使って追求しました。みんなが出した様々な現代の学校教育の問題点を、まずは大きくグルーピングし、ぞれぞれの関連性を探り、原因・結果の関係を図解にしながら、さらにその根本の原因はなんだろう?と徐々に掘り下げ図解にまとめました。

図解化することで「現代の教育の問題点とその原因」が明らかになると同時に、「次代の教育の可能性」もみえてきました。

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みんなで作った図解はこのようになりました。 (クリックで拡大)

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◆戦後から’60年代まで

それまでは、人々は飢えの圧力(=生存闘争の圧力)に晒され、飢えから逃れるために、必死になって働いた。生存闘争の圧力の下では、成員は序列原理(力の強い者に弱い者が従う仕組みで、徹底した力の原理とも言える。殺し合いを避ける本能の仕組みで、人類社会の身分制度も、これに基づいている)によって統合される。そこでは、誰もがいい大学(身分)、いい生活(お金)、いい女を、つまりは序列格差の旨味を求めて争う。そこでの身分やお金は、自分だけに所属する私有権であり、女(or男)でさえ自分だけの独占物である。その意味では、誰もが私権の獲得という目標に収束することによって、集団や社会が秩序化され、統合されてきた、私権統合の時代であったとも言える。
『次代を読む』 [3]

このように、この時代は誰もが豊かさを求めて、私権の獲得という目標に収束していた時代でした。「新教育指針」が目指した、近代思想を拠り所にした私権主体としての個人が形成されていった時代とも言えます。

この時代は「学校」も「家庭」も輝いていました。学校は、私権の獲得に至るための欠かすことのできない道のりであり、家庭では家族全員が豊かさの獲得という目標や夢を共有し、実際に電化製品が増え、家族でのレジャーが増えるなど、豊かになっていく実感を家族で分かち合うことができました。

いい点数を取って、いい学校に行き、いい会社に行くことが、幸せなのだと誰もが思っていたし、それが子供の勉強意欲を沸き立たせ、両親にとっても子育ての目標でした。

■’70~現在
ところが、’70に貧困が消滅し、社会全体の目標だった豊かさが実現されると、それまで社会を統合していた序列原理は崩壊し、集団はいたるところで機能不全を起こし、目標(収束先)を失った人々の心底に収束不全を蓄積させていきます。「家庭」や「学校」でも、次々と様々な問題が現れてきます。

(家庭)
家庭と社会を繋いでいた豊さ期待という社会期待が衰弱すると、家庭は社会から切り離され、消費だけの場となり、他人が口を挟めない聖域へと変貌していきます。

かつて、公の場で周りに迷惑をかける子どもがいれば、他人の子どもであっても注意することが当たり前だったし、それは親にとってもありがたいことでした。これは、社会の誰もが豊さ期待を共有すると同時に、子供たちに何が必要なのかも共有していたからです。

ところが、現在では 良かれと思って注意しても、親に逆切れされかねません。実際に他人の子供を叱る人はめっきり見かけなくなりました。聖域化した家庭には誰も口を挟めなくなったのです。

このように何ら社会から圧力がかからなくなった家庭では、親の好きなように子供をしつけることも可能になり、親の自己中を増大させていきます。しかし、一方で子育ての責任の全てを母親が背負い込むことにもなり、周りからの評価もなくなり、母親の存在不安が顕在化していきます。

それらのことが相まって、子供に対する【過保護】【過期待】【無期待】が強くなっていきます。そんな家庭に囲い込まれ、社会という広い同化対象から切り離された子供たちは、次第に【同化能力が低下】し、【自己中の増加】から【学級崩壊】、一方で【学力の低下】として問題化していきます。

(学校)
一方学校は、変わっていく家庭とは逆に、戦後一貫してほとんど変化しないことにより、次第に社会との乖離を大きくしていくことになります。その中で、もっとも変わっていないのが【試験制度】です。

かつての貧困の時代、豊かさ実現という社会期待が明確だった時代には、すでに答えが決まっている問に答えを出す能力(一問一答の暗記能力)の育成が必要とされ、学校制度はその期待に応えました。しかし、豊かさ実現というわかりやすい社会期待を失った現在、何を実現すべきか自体に答えを出さなければ評価されなくなりました。そうなると暗記能力だけでは社会に出て役に立つことは出来ません。(その典型が試験制度で優秀な成績を修めた官僚などの特権階級、今や何ら答えを出せない)

また、試験制度による選別や点数による順位付けは、序列原理の社会では有効に機能しました。いい点数を取って、いい学校に行き、いい会社に行くことが誰にとっても目標だったからです。ところが、序列原理が崩壊すると、いい点数をとっていい学校に行くことは、子供たちが勉強をする動機にはならなくなり【勉強活力の低下】【学力低下】をもたらすことになります。

それは、教える【教師の統合力低下】【教師の活力低下】【教師の質低下】をも引き起こし、すでに学校制度の根幹はガタガタの状態なのです。

■次代の可能性は?
このように家庭も学校も、それぞれに深刻な問題を抱えて行き詰まり、今や目標を失ってフラフラと迷走しているだけです。もはやこれまでの古い集団や制度に可能性がないのは明らかです。

では、どこに可能性があるのか?それは「人々の意識」です。

万人の意識の心底に収束不全が蓄積されてゆく。そして、新たな可能性収束先の探索が無意識に始まる。
そこで、意識の最も深い部分にある本能は秩序収束してゆく。∵本能は、自然圧力に対して生命が適応するため⇒秩序化するために塗り重ねられてきた、秩序化の体系だからである。

とりわけ人類にとって、秩序は共認によって形成される。だから収束不全から直ちに共認収束のベクトルに入ってゆく。最初は、’80年代に始まる仲間収束⇒’02年頃、私権観念が崩壊し収束不全が増大すると、次の秩序収束先として、課題(勉強・仕事)に収束する。そして、課題収束は必然的に追求に向かうので、追求と逆ベクトル(弛緩過程)にある遊びはうち捨てられてゆく。これが’02年以降、芸能や娯楽が衰退してきた理由である。

そして、秩序収束に立脚した共認収束⇒課題収束というベクトルの最終収束先は、認識収束しかない。ここまで当事者欠乏が生起して来たということは、娯楽をはじめとする代償充足は今後は不必要になったということに他ならない。これは決定的なパラダイムの転換である。
『10/17なんでや劇場(6) ’70年~現代 収束不全⇒本能的な秩序収束⇒課題収束⇒認識収束』 [4]より

この顕在化しつつある共認収束⇒課題収束の意識に応え、社会で約に立つ能力を育むことが、次代の教育ではないかと思います。

では、共認収束⇒課題収束の時代に必要な能力は何か?それは、同化能力です。社会の役に立つ=充足を生み出すには、相手に同化することが不可欠です、何かを実現するには、対象に同化することが不可欠です。つまり、【同化能力】が今後必要とされる能力ではないでしょうか。

では、具体的にどのような教育制度が必要か?・・・これについては、現在ネットサロンの教育グループで追求しているところなので、もうしばらくお待ちください。 😀 😀

さて、次回は、その次代の教育制度の追求として、改めて戦後の教育制度の変遷について整理する予定です。ご期待ください。

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