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近代思想に支えられてきた家庭(5)~否定し要求するだけの「閉塞の哲学」から、実現対象を獲得した「開放の哲学」へ

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シリーズで送りしている「自主管理への招待」は35年前に書かれた文章ですが、今読んでも、その認識の鋭さに驚かされます。

さて今回は、新しい認識はどのようにして生まれてくるのか、についてです。

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【自主管理への招待(5)】否定し要求するだけの「閉塞の哲学」から、実現対象を獲得した「開放の哲学」へ

社会の生産が変わる時、社会に深く根を下してきた思想もまた変わるしかない。工業生産の時代を支配してきた近代個人主義は、その対象性の欠如の故に、肥大化するエゴを制御し得なくなり、衰弱してゆく社会を蘇生させる力を失った。換言すれば、近代の主体は、奴隷的存在から脱却できなかったが故に、未だ存在の実現を射程内に納め得ない歴史段階にあったのだと言えよう。

しかし、人間が武力によって支配され、あるいは資本力によって支配されてきた人類二千年の歴史は、いま大きな転機を迎えようとしている。工業生産から意識生産への生産力の転換がそれである。意識生産は、人間の労働力そのものが、生産の主役と成り、社会の主人公と成る事を求める。そこで求められているのは、自己の奴隷性から目を外らせて「個人」幻想の中をさまよう事ではなく、明白に奴隷(雇われ人)からの脱出に向けて自己変革を計る事であり、現実の活動能力の貧弱さとはうらはらに自意識だけを肥大化させる事ではなく、現実を生きてゆく豊かな能力を獲得してゆく事である。要するに重要なのは、自己の現実の存在とは別の所(非存在の世界)に己を暖め続ける事ではなく、自己の獲得してきた意識と能力のすべてをこの現実の中に投入して、現実を突き抜けてゆく事であり、その導きの糸となるのは〈自己から対象へ〉の認識のベクトルの転換である。

もっとも、認識の方向を自己から対象へと転換させるだけでは充分ではない。自分にとって敵対的な「社会」だけを取り出し、それを体系化して否定することはたやすい。しかし、その「社会」体系は否定一方に歪小化された社会でしかない。否定は、未在の何かであるに過ぎず、その背後に潜む価値が実現されるのでなければ否定は(頭の中以外には)はじめから存在しなかったのと同じである。従って、否定がいつまでも否定のままで過ぎてゆく時(そうしてすでに百年も過ぎてきた!)、現実には決して存在しない否定世界の内に全ての内的価値が閉じ込められて終うことによって、現実そのものは何ひとつ変革されることなく、その否定の主体とは無関係に動き続ける。そして、否定している自分だけが、ひとり現実から取り残されてゆくのである。この否定の構造が、宗教のそれである事は、もはや繰り返すまでもないだろう。

このような意識構造は、はじめから自己の現実を変革する必要のない(現実を否定しているだけでも生きてゆける)人々に、おあつらえの「思想」的舞台を与えてきた。

しかし、他人事ではなく、自分自身の切迫した問題を抱えた人間は、単なる否定の段階に留っている事はできない。本当に現実に解決を迫られた人間は、現実の中に解答を求めるしかない。変革=実現を求める現実の主体は、敵対的な状況の壁に何度もはね返されながら、その否定的な対象のさらに根底に、実現を可能ならしめる地平を探り続けてゆく。こうして、自己の現実とその対象世界を見つめ続ける認識の錐が、否定の目に覆われた「社会体系」を突き破り、遂に自己を実現し得る肯定的な社会構造の地平に至る時、従来の否定に貫かれた〈閉塞の哲学〉は、はじめて否定そのものを否定し、実現対象を獲得した〈解放の哲学〉へと超克されてゆくのである。

現実を否定してても生きていける人(それを飯の種にしている人、例えば学者)からは現実を解決できるような新しい認識は生まれて来ていない。逆に、そのような新しい認識が生まれてくるとしたら、それは本当に新しい認識を必要としている人からしか生まれて来ない、ということなんですね。しかも、それは普通の人のようです。

可能性を感じられる事例が最近、るいネット [1]で数々紹介されています。
ぜひ、リンク先に飛んで読んでみてください。

例えば。。。

意識生産として眼鏡をつくる【眼鏡のとよふく】 [2]
究極の御用聞きに徹する【でんかのヤマグチ】 [3]

どちらの事例も、現実の対象である『人間』に深く同化することで現実を解決していっています。この場合、現実の対象である『人間』に同化せず、『モノ』だけを見ていたのでは、このような成功事例はなかったでしょう。

このように、新しい認識は本当にそれを必要としている人からしか生まれて来ないのですね。

[4] [5] [6]