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『新たな時代の教育制度の提言にむけてシリーズ2~13.日本の教育の歴史総集編 PART1(古代~江戸時代編)』

こんにちは 😀 よしたつです

『新たな時代の教育制度の提言にむけて』シリーズ第2弾前回の投稿 [1]でシリーズとしては一旦終了になります。今回は、その区切りとしてシリーズ2の総集編 PART1(古代~江戸時代編)をお送りしたいと思いますのでどうぞお付き合いください。

ちなみにシリーズ1では、イギリス、ドイツ、フランス、アメリカ、北欧、アジア等の諸外国の教育事情を扱ってきました。ここから見えてきたのは、教育の中身にそれぞれの国の特徴がよく出ていたことですね。各国の社会背景と外圧状況から、どんな教育体制をとるようになってきたかが浮かび上がってきました。(リンク [2]

そして、シリーズ2では、改めて日本に立ち戻って、日本の教育の歴史を振り返ってきています。ここでは、元来日本で行われてきていた教育のあり様が、江戸後期~明治期にかけて大きく変わってきたことが窺えたのではないでしょうか?実学暗誦教育から試験暗記型教育へと一変した今、それによって何が起きていて、これからどうすべきなのか、その実現可能性を見出して行きたいところです。

また、これらシリーズ1&2を受けて、次回シリーズ3では、とうとうこれからの日本の教育のあり方を実際に扱っていきます。是非その中身についても乞う御期待下さい。

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では、前置きはこのくらいにして、総集編 PART1の本文に入っていきましょう。

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■古代(奈良時代以前)の教育リンク [3]

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古代の教育は一言で言えば、中国、朝鮮を主にシルクロードで連結された大陸文化に依存した教育を中心としてきた。この頃の日本といえば、諸外国から見たら、一つの国家として認めるにはまだまだ国家体制が著しく乏しい状態であり、中国、朝鮮の首領に挨拶に伺っては存在をアピールする必要があった。それゆえ、そこでの律令体制や仏教を留学生や留学僧を派遣し学び取ることや、学者や学僧を招き入れることは、国家体制の磐石化には欠かせないものとして認識されていたのである。

そういった時代背景の下、ようやく671年に天智天皇により、日本初の官立学校が設立された。
その後、701年に大宝律令が制定され、学制がを具体的に定められ、貴族男子の為の大学寮を都に1校、郡司の為の国学を地方に各1校が設置されることになった

つまり、この時代の学校とは、律令体制磐石化にむけた官僚人材の育成を目的とした教育が行われるようになってきたことが窺える

■奈良時代の教育リンク [3]

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奈良時代に入ると、古代から引き続いて諸外国から多くの文化を学びながら、律令と漢詩文、仏教の学習・研究が更に盛んになってくる

中でも律令体制下の仏教の教理研究への期待が高まり、南都六宗を軸とした学僧衆が形成されるなど、奈良時代全般において寺社が教育の場の色を呈していく

また、この頃になると、貴族女子への教育も徐々に見られ始め、女子禁制だった大学寮の代わりに、曲薬寮、雅楽寮などの女子の入学も認められる教育の場がつくられ、女医や楽師になる貴族女子が登場するようになった。

さらに、8世紀中頃には当時を代表する知識人であり、文人でもあった、石上宅嗣により、古今の漢籍を中心とした書籍を収蔵した日本初の公開図書館、芸亭(うんてい)が設立されるなど、学問の重要性は更に高まりをみせつつある。

これらより、奈良時代は律令と漢詩文、仏教などの大陸文化の体系化が進むようになり、貴族男子のためであった教育の場が、徐々に対象を広げ始める段階となっていることがわかる

■平安時代の教育リンク [3]

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平安時代は、漢文学の発達と平仮名・カタカナの登場により、和歌・和文を通したやり取りを愉しむ風習が生まれるようになった。これらは、貴族の嗜みとして当たり前に必要とされる素養となり、多くの詩文集や物語を排出するきっかけとなった。

中でも貴族女子教育は、勧学院、学館院、奨学院などの大学別曹が設立され、習字・絵画・琴・琵琶・読書・和歌の修練など幅広く学ぶことが求められるようになり、平安期の貴族文化の繁栄に彩を添える形となった

一方で、
788年に比叡山延暦寺が仏教の総合大学のような地位を獲得したり、
828年に空海により、身分貧富に関わり無く学べる場の創出として、綜芸種智院の設立構想が登場するなどの動きも見られている。

以上より、平安時代までは、教育の主体は、やはり貴族階級にあったと言えるだろう。その中で、官僚育成としての貴族男子教育と並ぶ形で、貴族女子の教養の必要性が登場したことは非常に新しい出来事でもあった。また、それら教養を通して愉しむ姿が様々な文献上に描かれており、この時代の勉学が人と人とのやりとりの中で愉しむ道具となっている光景は注目に値する。さらに、仏教の総合大学としての比叡山延暦寺の登場や、空海の構想した庶民をも対象にした学び場の構想など、教育の必要性が貴族・僧に加えて、庶民にも次第に広がりつつある気運が読み取れるのも大きな変化の一例である

■鎌倉時代の教育リンク [3]

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鎌倉時代は、これまでに築かれてきた文学、彫刻、絵画、工芸などの日本文化が自覚され始め、教育に反映されていく時期であった。この頃から社会は、武力が物を言う武士社会になっていく。その影響で官立学校は衰退し、教育の場の主軸は、寺院や学者の私邸、家庭へと変わり、武士教育と庶民教育が登場する。

鎌倉時代の武士とは、領主に仕える職能集団であった。その役割は、開発領主として農村に定住し、防衛と農業開拓の指揮を執り、年貢徴収をするなど、農民を管理する役人(地頭)であった。それゆえ、学問と武士の道徳観を身に付けることが求められたのである

その最たる学問所として名を馳せたのが、平安末期~室町時代にかけて武士の為の学問所として設立された、足利学校の登場である。ここでは儒学、易学、兵学、医学が学べ、全国各地からこの地に人が集まる最高学府として存在した。

また、寺院は庶民でも受容できる仏教のあり方をすすめ、仏教を通じた学問と道徳的実践教育を進めた。

これら鎌倉時代の武士と庶民の教育場の誕生が、後の藩校や寺子屋のルーツにつながると言われている。

■南北朝時代~室町時代の教育

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鎌倉時代は、幕府が最終的に武士の不満を押えきれずに終わりを迎えた。それを受けて、南北朝時代では、武士を統合するための教育が求められた。だから、武士の封建意識をより強固なものにするための朱子学の研究が盛んに行われたのである。そして、14世紀末~15世紀初、朱子学に倣った武士の道徳観を説く往復書簡形式の教科書『庭訓往来』が成立し、これをベースにした武士教育が各地で行われるようになった。

この流れの中で、1432年衰退しつつあった足利学校を上杉謙信が足利の領主となり、再び最高学府とした復興させ、大盛況を迎えた。

以上より、南北朝時代~室町時代の教育は、鎌倉時代に収拾がつかなくなった武士を統合するための思想教育が行われるようになったことが窺える。

■江戸時代の教育1 藩校とは?リンク1 [4]リンク2 [5]

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藩校とは、武士のための学校であり、江戸期の武士の役割変化(役人としての役割)に適応するために、幕府の推進事業として勧められた官立学校である。

藩校は時代ごとで三段階に変化しており、江戸初期は、漢学の習得を素読・暗誦による教育を中心に行われており、江戸中期は、漢学の習得を残しながらも、特に朱子学に力点を置く教育指導に変わり、封建意識を根付かせる教育に転換した。また、江戸後期は、徐々に脅威を増してきた列強諸外国の影響により、西洋学の吸収に舵を切るようになった。特に重宝されたのが、西洋砲術などの兵法であり、これらを積極的に採用し、軍事学・軍事戦術の訓練が藩校で行われるようになった。

■江戸時代の教育2 寺子屋とは?リンク1 [6]リンク2 [5]リンク3 [7]

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寺子屋とは、庶民のための学校であり、長期安定した江戸期に広がった地域ネゥとワークと農業の発達に伴う自主的な学習意欲に駆られて各地で発展した民間学校である。

寺子屋は、学習塾ではなく、むしろ手習師匠の弟子として入門することに近い。信頼の足る手習師匠と、兄弟子との中で日常生活に必要な読み書き・そろばん・礼儀作法を身に付けていく場である。そして、そこでの教育手法は、手本を声を出して読み、正確に写書することを、ひたすら繰り返し、与えられた手本をそのまま暗誦することにある。それらを通して、自分達が村から期待されていることを感じ、社会へと意識を広げていく場であったのだ。だから、師匠の役割は、子供の模倣すべき規範を示し、その規範から子供が逸脱した時には、それを指導して修正してやることにある。

※寺子屋に見られる主体的な勉強意欲の背景の分析についてはリンク [7]参照。

■江戸時代の教育3 私塾とは?リンク [8]

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私塾とは、寺子屋で習う日常の読み・書き・算術・経営よりも、もっと高度な学問を習得したいという思いに応えるための教育機関であった。それ故、私塾の開塾者のほとんどが巷でも名を馳せるような著名な学者であり、その者に師事を仰ぎたいと思う若者が全国各地から塾生として訪れた。

私塾の源流は、儒学教育の習得にあった。そこで最も有名だったのが、伊藤仁斎が開塾した古義堂(京都堀川)という私塾であった。開塾は1662年の江戸前期まで遡り、そこで伊藤仁斎は幕府中心で編集されていた儒学教育が幕府の推奨する朱子学に傾倒していることに危機感を抱き、純粋儒学教育を目指したことが発端となっている。

私塾が急激に増えたのは、江戸も終わりを迎える1800年頃の江戸後期になってからである。それまでは、一部の比較的余裕のなる層が私塾に通い、他はせいぜい寺子屋か藩校止まりであった。しかし、江戸も中期から後期にかけて列強諸国の圧力に徐々に押されながら、少しずつ江戸の街に浸透してきた西洋思想や文化に、そこで生きる人々が興味関心を当然深めていくことになった。

とは言え、寺子屋や藩校で、そういった学問を公に学ぶというわけにもいかず、そんな人々の潜在的な期待に応えるように欧州・欧米帰りの学者らが帰国後一同に、蘭学、医学、天文学、西洋術(兵術・砲術)を学ぶ私塾を開設したのである。これら私塾の多くは、確かに純粋な学問教授を目的としていることがほとんどであったが、学ぶ中で西洋との思想的な喰い違いを露見させることに一役買うことになったことは言うまでもない。その結果、幕末の公武合体政策や尊王攘夷思想へと強く誘引するきっかけとなったとも言える。これらからもわかるように、私塾は江戸幕府を底から崩壊させるのに必要不可欠な存在だったのである。

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はい、かなり長くなりましたが、ここまでが古代~江戸時代までの教育の大まかな流れです。詳しくはリンク先をご覧になって、よりその時代の状況を捉えてみてくださいね。次回は総集編 PART2でまたお会いしましょう。

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