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『新たな時代の教育制度の提言にむけてシリーズ2~12. 明治末期~昭和初期(戦前)の公教育の変遷』

みなさん、こんちには。『新たな時代の教育制度の提言にむけてシリーズ2』
前回は「明治時代の公教育の変遷」 [1]を扱いました。今回は、明治末期~昭和初期(戦前)の公教育の変遷をお送りします。

明治時代の後半から大正時代の初期にかけて、わが国の近代教育制度は確立し、しだいに整備してきた。初等教育より高等教育に至るまで基本となる学校体系が整い、多様な学校がその機能を明らかにして、国民の教育要望にも応ずるようになった。

文部科学省『学制百年史』 [2]より

この「わが国の近代教育制度」とはどんなものでしょうか?

それを象徴するのが、明治時代の後半に学校に導入された「学級制」です。これは、それまでの「等級制」においてみられた、知育中心・知識の伝達に重点をおいた、個々人の知育を中心とした教育から、道徳教育や国民教育という訓育的側面に重点をおいた、とりわけ日本国民としての一体性を涵養するたの教育への転換でした。(当初、「等級制」に対する強い反発があり、学校焼き討ちなまでに至ったようです 『明治時代初期:なぜ、学校一揆や学校焼き討ちが起こったのか?』 [3]参照)

しかし、学級制の導入は簡単には進みませんでした。なぜなら、村落共同体の中で「子ども組」という村の生産活動と密着した異年齢集団に所属することが当たり前だった子人々にとって、「学級」という有無をいわさず同年齢の子供が集められ、よそ者の教師によって統制される集団は、あまりにも奇異な集団に写ったからでした。

そこで、このような集団に子供たちを収束させるために、「学級」にさまざまな活動や行事が導入されることになります。

学級の共通課題としての学級新聞、学級誕生会、学級歌などの近代的な「学級文化活動」、学級間の競争意識から学級としての一体感を強めた「運動会」。開通したばかりの鉄道を使って、東京や京都を見学するという一生に一度の大旅行を共に経験する「修学旅行」。現在の学級にも受け継がれている、これらの学級活動や学校行事が、この時期に定着していきます。

村落共同体が、生産、生活、集団統合、祭祀などすべてを内包する存在であったのと同様に、「学級」にも学習以外のさまざまな活動が組み込まれ、学級はいわば生活共同体として機能するようなります。それに伴い次第に子供たちは学校への関心を高かめ、学級に強く収束していくことになります。このように「わが国の近代教育制度」を特徴付ける「学級」がこの時代に誕生したのです。

 では、国家はなぜこのような「学級」を作ったのでしょうか? 「学級」は国家制度としてどのように機能したのでしょうか?

近代の学校では、教科書を中心とした一斉授業が学習の中心になりますが、今回は、その教科書を中心にみていきます。この時代の教科書は、執筆・編集を政府機関(文部省)が行い,政府が全国の学校で一律に使用させる「国定教科書」でした。時代状況ともに「国定教科書」の遍歴を見ていきます。

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日清戦争(1894年/明治27年~1895年/明治28年)
藩閥政府と民党側の一部とが提携する中、積極的な国家運営に転換(財政と公共投資が膨張)することになる。さら に、懸案であった各種政策の多くが実行にうつされ、産業政策(海運業振興策など)や金融制度(金本位制に移行・日本勧業銀行など特殊銀行の相次ぐ設立)や税制体系(新税導入・たばこ専売制)など、以後の政策制度の原型がつくられることになった。

1903年/明治36年 「小学校令」改正
小学校の教科書の国定制が実施された。「教育勅語」の理念を、国定教科書によって徹底するという意図に加え、日清戦争の勝利を背景としたナショナリズムの高揚が、そうした動きを加速した。また、就学率が80%に達した尋常小学校の教育内容を画一的に管理しようとするものであった。

■第一期国定教科書制度 1904年(明治37年)~1909年(明治42年)

小学校教科書は1904年(明治37年)から使用開始。
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教科書は、国語読本、書き方手本、修身、日本歴史、地理だった。1905年(明治38年)から算術と図画の教科書が加わり、1910年(明治43年)には理科の教科書が加わった。

修身教科書は、個人や社会を倫理が重視された。これは列強国として地歩を固めつつあった当時の日本にとって、忠君愛国の気質を養成することと並んで、資本主義国家の国民として欧米の近代市民社会の倫理観の涵養が求められていたことの表れだった。

日露戦争(1904年/明治37年~1905年/明治38年)
日清戦争の場合と異なり、日露戦争後の講和条約では、戦後の賠償金が一銭も入らなかった。そのため日露戦争の借金は、上表からも分かるように大正の第一次世界大戦まで背負っていくことになる。しかし日本はこの巨額の借金を背負ったが、一方では日露戦争を通じて産業の中心が軽工業から重工業に移り、鉄鋼、機械、鉱山、電力、輸送など多くの基幹産業がこの借金から生まれて育っていった。(つまり、日本経済の近代化は外国からの借金によって進められたともいえる)

日露戦争の勝利により、日本は列強国としての地歩を確実にしたが、それまで高まりをみせていたナショナリズムは急速に衰えた。農村では地域社会の利益を求める傾向が現れた。また、資本主義の発達により生じた社会主義運動の高揚に危機感を抱いた政府は、国民統制の強化に着手した。

1908年(明治41年)「戊申詔書」発布
国民道徳の強化と地方社会の共同体的秩序の再編に務めた。その中で小学校は地域の教化政策の中心におかれ、村長は村の指導者となり、村民教育方法が考えられ、教育の対象は小学生だけでなく、実業補習学校、青年会、婦人会の青年や一般村民にまで拡大され、責任の自覚や勤労奉仕が課題として教えられた。

■第二期国定教科書 1910年(明治43年)~1917年(大正6年)

第一期で重視された近代市民社会の倫理に代わり、家族的国家倫理を重視する姿勢に変わった。
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『高等小学修身書』では、親に対する孝行と天皇に対する忠義を同一のものと捉えた上で、国家を家族に見立て国民の団結を図ろうとする家族国家観の性格がはっきりと示されている。

また、第一期では別々に挙げられていた忠君と愛国が結び付けられ、新たに忠君愛国という項目が生まれ、忠君と愛国同一に考えられるようになった。国語教科書では、軍事教材が増加し忠孝道徳をテーマにした「かぞえ歌」を取り上げられた。

第一次世界大戦(1914年/大正3年~1918年/大正7年)
国土が戦火に見舞われなかった上に、当時すでに世界有数の工業国として近代工業が隆盛を誇っていた日本は、連合国の他の参戦国から軍需品の注文をうけ、成金が出現するなど大戦景気に湧いた。

大正時代は、長州閥を中心とする藩閥政府の強硬姿勢に反対する第一次護憲運動、普選運動まど、国民的な政治運動が高まりを見せた。また、第一次世界大戦の世界的な平和主義、列国間の強調の流れに基づく協調外交の進展がみられるなど、大正デモクラシーというわれる自由主義的・民主主義的風潮の強まった時代だった。

教育面では、都市中間層といわれる知識階層を中心とする教育・文化への要求の高まりと、世界的な教育改革運動の流れを背景に「児童中心主義」を旨とした大正新教育運動(大正自由教育)が展開した。しかし、自由主義的・民主主義的風潮は、社会主義あるいは共産主義の浸透を恐れる政府の社会統制政策により、徐々に衰退していく。

■第三期国定教科書 1918年(大正7年)~1932年昭和7年)

自由と統制の両面を合わせもつ大正期に編纂された。第一次世界大戦が終結した1918年(大正7年)から順次使用開始さらた。
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終戦終結後の国際協調制の流れを意識した内容になっており、修身教科書では、第二期で後退した近代市民社会の倫理が再び重視された。

『尋常小学修身書』の「国交」では日本が常任理事国入りした国際連盟の説明を介して、第一次世界大戦後の国際協調の意義が述べられた。一方歴史教科書は、「天の岩屋」「大国主命の国土献上」などの神話が増加し、修身や国語教科書では後退したナショナリズム色が強められた。

第一次世界大戦以来続いていた日本の好景気も、ヨーロッパ諸国の戦後復興が進むに従って陰りが見え始めた。また1923年(大正12年)に関東大震災に見舞われ経済に大きな打撃を受け、1929年(昭和4年)の世界恐慌によってさらに深刻な影響をうけることになった。

こうした経済の混乱状況は、国民の政党政治への不信感を高めることになり、結果として大陸への進出を図っていた軍部の発言権を強めることになった。

■第四期国定教科書 1933年(昭和8年)~1940年(昭和15年)

1933年(昭和8年)から順次使用が開始された。
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その内容は、天皇制下の臣民としての倫理を重視する傾向が顕著になり、軍事教材が増加し、国体が強調された。軍部の台頭に伴う政党政治の崩壊、国際協調体制の終焉といった社会状況が反映され、一国至上主義に偏った内容が目立った。

修身教科書は、天皇制国家を支える臣民としての心得に主眼がおかれ、国語教科書では兵隊の絵などを掲げるなど軍事教材が多く見られるようになった。このように、天皇を中心とした家族主義国家観に基づく国民教化の手段として教育、とりわけ学校教育が大きな役割を担うことになった。

1941年(昭和16年)「国民学校令」公布
小学校は国民学校と改称され、初等教育の目的は皇国民(天皇が統治する国の民)の錬成(練磨育成)とされた。

太平洋戦争(1941年(昭和16年)~1945年(昭和20年)

■第五期国定教科書 1941年(昭和16年)~1945年(昭和20年)

国民学校制度の発足に合わせ、順次使用が開始された。修身や国語、歴史の教科書を中心に、戦時色の極めて強いものだった。
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国民学校令により、修身、国語、歴史(国史)、地理の各教科は国民科に統合された。とりわけ修身は、戦争遂行の「道徳的使命」の涵養を図る目的を持った科目として位置づけられた。

国定教科書は神話や戦争を題材とした教材が増加し、戦争を肯定し自発的に協力する態度を養うため、その主旨が意図的に改変された教材も多くみられた。歴史(国史)の教科書は、科学的な歴史学の研究成果とは異なる、いわゆる皇国史観に基づく天皇の事績が、神話時代に遡って語られる形式だった。地理の教科書は、ヨーロッパやアメリカが省かれ、アジア諸国に関する記述が中心となった。

一方、理科の教科書は、それまでの知識注入主義に偏っていた内容・構成が、観察や実験を重視した問題解決型へと変化した。これは、近代的な兵器が用いられた戦争を背景に、科学的思考力の育成を目的にしたものだった。


明治末期~昭和初期にかけての日本は、対外的には日露戦争とその後の第一次世界大戦を経て、列強の一角を占めることになりました。一方、国内では資本主義の発展に伴って社会主義運動、さらに護憲運動た普選運動などの政治運動に象徴される民衆の政治的成長がみられました。こうした社会状況のもと「国定教科書」の導入が図られ、教科書は国民の思想統制の重要なツールとして機能したのです。

また、公教育が確立しする課程で、教材となる「教科書」と、「学級」という学習以外のさまざまな学級活動や学校行事を内包した生活共同体がセットになっていたことが注目されます。「学級」に見られる教師と生徒の濃厚な人間関係は日本特有のもので、欧米諸国の「学級」での人間関係はもっとドライで、学習機能に特化したものであるようです。村落共同体を基盤とした共認体質を保ち続けてきた日本では、村落共同体にとって「異質な公教育」を根付かせるためには、「学級」を生活共同体として機能させることが不可欠だったのでしょう。

この生活共同体としての「学級」を基盤とし、「教科書」を中心にした一斉授業という形式が、「わが国の近代教育制度」の大きな特徴だといえそうです。

今日までどれだけ教育改革が叫ばれ、どれだけ鳴り物入りの「改革」がなされてきたことだろう。教育制度をくぐってきた体験の中、改善されたという実感はなかったし、今行われようとする改革も明るい見通しは持てない。

それは、結局、根本に義務教育があるからではないのだろうか。憲法により「無償」と規定された子供の教育は、社会的洗脳の始まりである。明治の近代国家建設期から、国家の、支配階級の教育支配が綿々と続いている現実。それは、一人の人間の幼い「認識」を形成する学校教育から始まっている。

『義務教育は洗脳の手段だった』 [4]

今回見た明治末期~昭和初期(戦前)の公教育は、まさに洗脳システムそのものです。現在はその当時と学習する内容は大きく違っています。しかし、現在の公教育は、「学級」にしろ「教科書」にしろ制度の枠組み自体は基本的に変わっていないのが現状です。

 江戸時代から昭和初期にかけて、日本の公教育の成立と背景を見てきた『新たな時代の教育制度の提言にむけてシリーズ2』ですが、次回は今シリーズの最終回として総集編をお届けする予定です。ご期待ください!!

 写真:「明治からの教科書の変遷で見えてくるもの」 [5]からお借りしました。
 参考:山田恵吾・貝塚茂樹編著『教育史からみる 学校・教師・人間像』

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