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『新たな時代の教育制度の提言にむけてシリーズ2~11.明治時代の公教育の変遷(1)

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今回は、明治政府が定めた教育制度の変遷をお送りします :tikara:

明治政府の教育制度は、学制はフランスに倣い、教育内容については、アメリカを手本としました。フランス、アメリカの教育については、新たな時代の教育制度の提案に向けて~総集編 [1]をご覧ください。

フランスやアメリカと同じように、明確な身分序列体制が弱かった日本は、観念による意思統一を図る目的として教育を根幹に据えていきます。但し、欧米のように、キリスト教という統一された観念体系のない日本において、「自由・平等・博愛etc.」などの近代思想を受け入れる土壌が希薄でなかなか根付かず、一時は儒学などの旧来の学問に傾斜してゆきます。その後、自由民権運動などの分散勢力の台頭などで、中央集権国家としての国家統合への画策から、天皇という神格化した存在を核とした「天皇臣民」教育へと舵を切っていく流れで推移していきます。

それに加えて、戦争圧力の高まりによる、「富国強兵」、「殖産興業」の意識の高まりから、ドイツのような実学志向の流れも高まっていきます。

さらに、国家の指導者育成の考えから、大学が官僚養成機関として整備されていきます。これは、フランス、アメリカのエリート教育と重なる流れで、それは、大正時代に排出される総理大臣の多くが、(明治時代にエリート教育を受け)東大主席という学歴であることからも分かります。

以下、各教育制度を紹介していきます。

その前に、
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創始期

(1)「学制」の頒布(1872年/明治5年:江藤新平文部大臣、加藤弘之文部大丞)%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3.jpg
◆「学制」では序文として「学事奨励に関する被仰(おおぜい)出書(だされしょ)」(被仰出書)を出し、理念として
①立身出世主義的な教育観
②全員が教育を受ける国民皆学の奨励
③実学主義的な学問感、基礎学力の習得を基本に実学的な近代科学を重視

◆「学制」の条文は、その多くが学校制度の体系を決定し、これを実施する行政組織をつくるための条章であった。学校制度の体系としては小学、中学、大学の三段階を基本とした。

これらの小学、中学、大学を設けるために「学区制」をとり、全国を53,760の小学区に分け、ここに小学校一校を、210小学区をもって中学区とし、全国256の中学区に中学校一校を設置することとし、32中学区をもって大学区とし、ここに大学一校、全国に8大学を設けることとした。

一方で、当時の財政状況から、本学制の実現は難しく、学区制による学校の開設は、小学校設置についてだけ学制条文に基づいて設置されることに終わった。

小学校には寺子屋や私塾を集めて作ったりしたものもあったが、1877年/明治10年には小学校の数は目標の半分の25,000校。
期待される画一的な教育内容が当時の生活の実態から遊離しており、教育費が受益者負担であったので、十分には受け入れられず、重い教育負担に反対して「学校打ち壊し」などの暴動も起こった。

その背景には、「当時の庶民にとって学校教育は、現実の役に立たないどころか、村落共同体を破壊しかねないもので、その学校教育を押し付ける国家に対する反発」として表れたものだった。明治時代初期:なぜ、学校一揆や学校焼き討ちが起こったのか? [2]

◆教員の養成が初めて実施され、東京に師範学校を開設
アメリカ式の教授法:「一斉教授法」の採用。教員養成のための官立師範学校を各大学区に配置(1874年/明治7年)。東京女子師範学校を開校(1875年/明治8年)された。
その後、財政窮乏で官立師範学校は東京および女子師範学校を除き廃校→府県立として運営。
教員の不足に対して、寺子屋出身の現場教師に「伝習や講習」を数ヶ月行ない促成した。→各地に伝習所や講習所を開設。

◆翻訳物を主として教科書を編纂
・修身教科書は「民家童蒙解」(米ウェーランド/青木輔清)、「童蒙教草」(英チャンブル/福沢諭吉)、「修身論」(米ウェーランド/阿部泰蔵)、「泰西勧善訓蒙」(仏ボンヌ/箕作麟祥)、「性法略」(蘭フィッセリング/津田真道・西周)と「伊蘇普物語」が使われた。
・国語教科書は、当時、国語教科はなく「綴字かなつかい」「習字てならい」「単語ことばの読方よみかた」「読本読方」がこれに相当し、文部省が発行した教科書「単語編」(1872年/明治5年)、「小学教授書」「小学読本」(1873年/明治6年、米ウイルソン・リーダーの直訳/田中義廉)が使われ、欧米志向が強かった。
・歴史教科書は「史略」「五州紀事」(1872年/明治5年、寺内章明訳編)が使われ、世界特に米英の歴史に詳しいものが使われた。
・地理教科書は「西洋事情」「世界国尽」(福沢諭吉)、「輿地誌略」(内田正雄)など多くは世界地理を学ぶものが教科書として指定された。
・理科教科書は科学知識・技術を重視する政府にとって重要なものであり、「訓蒙窮理図解」(福沢諭吉)、「天変地異」(小幡篤次郎)、「物理階梯」(片山淳吉)が代表的なものであり、いずれも英米の教科書を手本としていた。
・算術教科書は「筆算訓蒙」(塚本明毅)、「洋算例題」(佐々木綱親)が出版され、従来の算盤から筆算を教えるようになった。

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これらの教科書は、前述したように「役に立たない」という意識の高まりから、年を経るにつれ、初期の翻訳書から儒教主義的なものに変わっていった。

(2)教育令の制定(1879年/明治12年、田中不二麻呂文部大舗(たいふ))%E6%95%99%E8%82%B2%E4%BB%A4.jpg
「学制」による学校設立の受益者負担や学費徴収は、国民に大きな負担を負わせ、学制の理念と国民の教育実態との間に深刻な格差を齎したことから、新たな制度改革が行われた。

「学制」を廃止して「教育令」を公布。
①中央統轄による画一的な教育を改めて教育行政の一部を地方に委任すること。
②学制の重要な方策であった学区制を廃止し、府県に学校の運営をまかせること。

改正に当っては、道徳派・儒教派の元田永孚(ながざね)と開明派の伊藤博文・井上馨とが対立した。
主な改正点は政府主導の中央集権的なものから、アメリカ的な地方分権的なものとし、理想主義的な制度から、生活の現実を見据えた教育内容にし、当時の自由民権運動に対する民衆の同調を防止することであった。

① 就学期間を4年に短縮
② 学区制を廃止し、町村ごと或いは数町村で公立小学校を作れるようにし、地方自治体にも教育行政の責任を分担
③ 私立小学校の設置には認可が不要で、また公立小学校を代替することを認めた
④ 児童の就学、学校の設置・管理のために民選による学務委員をおいた
⑤ 授業料の徴収は学校の自主性に任せた。
⑥ 教則編成の主体は学務委員においた。

当時の自由民権運動などの思想との関連から、世間では自由教育令などという世評を受けた。府県によってはこの教育令が学校の設置経営を自由にしたということで小学校を廃校するものもでき、地方によっては就学率が低下する情況も現われた。

(3)改正教育令(1880年/明治13年、河野敏鎌文部卿)
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自由化路線の基本的な転換をし、次のような改正が行なわれ、復古派の意見を入れ、近代学校制度を定着させる動きと共に、中央集権化、国家統制が進んだ。

①就学の義務と公立小学校の町村の設置義務を強化
②学務委員を民選から府県知事県令の任命制とした。
各府県に師範学校の設置を義務付け、教員免許状の制度を明確にした。
1881年/明治14年には「小学校教員心得」「学校教員品行検定規則」を定め、尊王愛国の志気を振起し、教員の政治活動を規制し、国家の統制を強化した。さらに1882年/明治15年には「幼学綱要」を宮内省から出し、仁義忠孝を中心とする20の徳目をまとめ、全国の学校に配布した。
④小学校教科で修身科を筆頭教科とした。1880年/明治13年には修身教科書「小学修身訓」(西村茂樹)を編纂し、仁義忠孝の精神を教育の中心においた。
⑤ 教則は文部省頒布の綱領に基づいて府県知事が編成し、文部卿の許可が必要とした。
⑥1881年/明治14年に「小学校教則綱領」「中学校教則大綱」を定め、教科書編纂への国家基準を示し、ここで定められた教授要旨を基準にして教科書が編集されるようになった。

学年別の教科書が編集され、内容は翻訳物と伝統的な国風が統合されたものになって行った。1883年/明治16年に教科書採用の方法を開申制から認可制へ変更し、教科書検定制度への準備を進めた。
教え方も、子供の能力を開発する「開発主義教授法」が試みられたが、形式化したものになり、改善として子供の認識過程と教授内容の統一的把握を目指したが、国家統制が強まり、教育内容の定型化、画一化の方向に進んだ。

当時、板垣退助らによる自由民権運動が盛んになり、教師も多く参加したので、政府はこれを制約するために「集会条例」(1880年/明治13年)を出し、教師が政治結社や集会に参加するのを禁止した。1881年/明治14年には「小学校教員心得」「学校教員品行検定規則」が制定され、知育よりも徳育に重点が置かれ、皇道主義の教育方針の貫徹が図られ、教育政策が自由から統制に変換し、教師への国家管理が強化された。

近代学校教育の創始期における制度は、明治十年代の終わりにかけて試みの段階を終わったが、創始期の中心になっていたのは小学校であった。

(2)へつづく

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