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家庭の教育と社員(共同体)の教育って繋がってる?!(6)~ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」

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「家庭の教育と社員(共同体)の教育って繋がってる?!」シリーズの6回目です。前回は、実際に社会に出てから求められる能力はなにか、社会で活力を持ってやっていくには何が必要か、というお話でしたが、今回はヘヤー・インディアンの家庭(というより子育て)と社会が一体化している事例から今後の家庭や社員の教育について考えてみたいと思います。
 
今回扱うヘヤー・インディアン [1]とは、「カナダ西部の北極圏で生きる人々です。「ヘヤー」とはウサギのことで、この人々がウサギに強く依存して生きていることからそのように呼ばれるようになったと言われます。」だ、そうです。
 
更に、「ヘヤー・インディアンは、産みの両親や育てた人の持つ能力やその性格が、子供に受け継がれてゆくとは考えないようです。むしろ、すでに亡くなった人々の中で、いつまでも語り伝えられている伝説上の人物の誰かが子供として再生したと考えます。」ともあります。
 
まずこちらの記事からどうぞ。

ヘヤーインディアンの社会に見る子育て観 [2]

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ヘヤーインディアンはカナダ北西部、北極に近いタイガの林の中で生活し、ムースやカリブなどの動物を狩猟している。この地域は、冬が長く、氷点下50度になることもまれではない。凍死と飢えの恐れに晒された凄まじい自然外圧状況下で生活している。

このような状況下で、ヘヤーインディアンは集団の活力源となる解脱を非常に重要視しているが、着目すべきは「子育て」を最大の解脱充足源と捉えている点にある。

ヘヤーインディアンは「はたらく」ことと「あそぶ」こと「やすむ」ことをそれぞれ区別している。「はたらく」とは文字通り闘争課題・生産課題そのものであり、「あそぶ」「やすむ」は解脱であると位置付けられるが、「育児」はヘヤーインディアンにとって、「あそぶ」ことに位置付けられているのである。その意識は、子どもを「育てる」と言うよりも、「自分達が子どもに楽しませてもらっている」、厳しい外圧に対峙する上での「活力をもらっている」と言う方が的確である。

(日本人が子育てに対して抱くような)しつけ意識は全くと言っていいほど見られない。そのため、子どもに対して忠告したり、命令することは皆無のようである。子どもは大人が「育てる」「しつける」ものではなく、厳しい自然外圧に対峙し、大人達を真似る中で自然と育っていくと認識している。このような意識でいるからこそ、「子育て」に対して妙な責任意識を抱く必要もなく、充足源として捉えられていると考えられる。

ヘヤーインディアンの社会で興味深いのは、「親子のつながり」に対する意識が極めて薄く、容易に養子に出したり、また養子をもらったりする点にある。「自分で生んだ子どもは、自分で育てるのが当然だ」と言う考えは無く、子どもは部族みんなの中で育っていくと認識している。
(略)
ヘヤーインディアンの子育て観は、現代日本社会から見れば、非常に特異的に感じるが、「外圧・生産課題を通しての成長→しつけ意識は不要」「子育ては最大の充足源」「親子意識が無く、部族全体で子どもを育てる」と言った子育て観は共同体社会に共通に見られる意識である。

1点目の「外圧・生産課題」を現在の日本に置き換えて考えてみると、既に貧困の圧力を脱した現在の主な外圧といえばまずは「仲間圧力」、次に相当克服したとは言えやはり人間の生活に影響の大きい「自然外圧」ではなかろうかと思います。

特に家庭に着目した場合、近代社会以降、家庭は社会から分断された「聖域」として無圧力の空間と化しています。ここでは、全く圧力を感じずに過ごすことも(実は)可能ですが、それではまともな人間になりません。ヘヤー・インディアン程とは行かなくても、何らかの外圧をしっかり感じさせることで、今後の課題への対応力がついて行きます。言い換えれば、人類に限らず生物は、「外圧」に同化してこれに適応すべく対処することで生き延びられる基本構造があるということです。これ無しに躾=規範観念だけを植え付けるのは極めて硬直化した頭の固い人間を作り出すことになるでしょう。

又、子育ては何時の時代も充足源です。しかもこのことは直接の親だけが感じることではなく人類の宝として共有できるもののはずです。1人の親が子どもを囲い込んで自分だけの充足源にしてしまった場合は、子どもは自身の親以外に目を向けることなく親の個性だけが転写された特異な人間になってしまうでしょう。更に充足源どころか子どもを非充足の対象と見てしまった場合には、言うまでも無く一緒に暮らしていくことは不可能です。

わざわざ無理して苦しむより、子育てを充足源と捉えかつ自身の子どもに執着しない大人が居たとしたら、そうした人々に子育てを委ねるしかないでしょう。むしろ、自身が抱え込みすぎて苦痛に感じているのだとしたらなおさら周囲の大人を頼ったほうが全然良いと思います。

更にヘヤー・インディアンの事例を御紹介します。

ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」 [3]

ヘヤーインディアンの社会では、「教える」「教えられる」と言う意識が全くない。それどころか、「だれだれから教えてもらう、習う」と言う言葉がヘヤー語=観念体系として存在していない。(略)

ヘヤーの社会において、物事は人の行動を注意深く観察し、同化することで自然と身につくことであると考えられている。例えば、自分のまわりにいる友人や従兄弟や兄弟達の猟の仕方、皮のなめし方、火のつけ方、まきの割り方などをじっくり観察することで、男の子は猟の仕方を、女の子は皮のなめし方などを身につける。(略)

更に着目すべきは、同化に対する不可能視の無さにある。
ヘヤー社会では、「誰かが出来ていることは、自らにも必ず出来る」と言う意識が存在している。その為、(誰かを真似て)初めての行動を行う際にも「不可能視」が介在し得ない。
(略)
ヘヤーインディアンには同化に対する不可能視が無いからこそ、誰かが出来ていることに対しては、(己も)「やれば解る」「やれば出来る」となる様である。

考えてみれば、ヘヤー社会で無くても、子どもは「万能観」の固まりで、「不可能視」と言うものがない。自身の子どもを見ていても、(無謀にも)いろんなことを「(自分も)やってみる」と、大人のやることを真似てどんんどんチャレンジしていく。
本来的に「同化」には「不可能視」など介在しえず、「同化するだけ」「やってみるだけ」と言うのが本質なのかもしれない。(当然同化過程における試行錯誤はあるが、それは「不可能視」ではなく、必ず出来ると思っているからこその試行錯誤と言えるだろう)

一方で、「教える」「教えてもらう」と言う意識の根っこには、本質的に「不可能視」が存在しているのではないかと感じる。相手が”出来ない”ことを前提としているからこそ、「教える」必要があり、同時に自分は”出来ない”ことを前提としているからこそ「教えてもらう」必要がある。
(略)
ヘヤーに限らず共同体社会において広く見られる”同化教育”においては「不可能視」が生じ得ないが、「教える」「教えてもらう」ことを前提とした近代教育制度の下では、子どものころから「不可能視」が刻まれる。
当然、そのような「不可能視」は外圧に対する突破力に対して大きな影響を与える。
このように考えてくると、「教える」「教えてもらう」を前提とした近代教育制度は、致命的な欠陥を孕んでいるように感じる。

例えば現在の家庭において「同化対象」は誰でしょう?一番に思い当たるのはいつも一緒に居る母親でしょう。

それはそれで初めのうちは良いのですが、ここでの問題は、母親しか存在しない家庭と言う密室空間に何時までも居続けて良いのかという点です。子どもは何時までも家庭に留まっている訳には行きません。又男の子が同化すべき対象は、やはり闘争存在たる大人の男であるはずですが、父親は殆ど家庭に居らず同化のしようが有りません。
 
学校に通う年代では学校に行けば友達や先生が居ますが、これらも完全な同化対象にはなり得ません。特に先生は、実に多くのことを子どもに教えてくれますが、子どもは必ずしも将来「先生」になる訳では有りません。先生も自らが追及した成果を伝授するのではなく、決められたカリキュラムを淡々とこなしているだけです。

師は「知識供給者」ではなく同化対象 [4]

ここに「同化して真似る」ことと「教えること」の大きな違いがあると思います。

確かに現在の日本の社会は、ヘヤー・インディアンの様に単純では有りません。同化して習得すべき技術も、現在の生業としてみた場合実に多様です。しかしこのように多様化した生産様式のどこに「同化」すべきかは、はっきり言えば子どもの自由な選択に委ねられており、少しやって駄目なら早々にその対象を替えるなど、恣意的かつ中途半端に選択できるようになっています。

しかもその結果、子どもが同化能力を衰退させていくとしたらどうでしょうか?何であれ、常に同化して「自分も出来る」と考え、実際に出来るようになるヘヤー・インディアンと何時までたっても同化(の訓練が)出来ず、同化対象も定まらない日本の現代人とでは、当然同化能力に大きな差が出てくる=結局何も出来ず終いでしょう。
このように社会と分断した家庭から出発する現在と、常に家庭(というより単なる“子育て”)と社会(生産過程)が一体であるヘヤー・インディアンとでは、自ずと異なってくるでしょうけれど、そもそもヘヤーインディアンには無い「家庭」という密室空間に留まっていたのでは、子どもだけではなく大人さえも、そのの同化能力が衰退していくことは明らかだと思います。

全く逆に、日常生活や子育てと生産過程が一体化すれば様々な同化対象が身近に存在し、常に同化の経験(訓練)を積む事になります。そこでの同化対象は、更に上を行く先輩たちで、彼らが何の仕事をしているかと言うより、常にその道を極めようとする姿勢にこそ同化の可能性があるでしょう。思えば人間の成長とは、就職して(或いは昇進して)終わりではなく、常にその時々の外圧に真剣に対峙してその道を極め続けることで得られるのだと思いますが如何でしょうか?

ヘヤー・インディアンの学習法~「よく観て、真似る」 [5]

学校ってどうなってるの?71「学ぶは真似ぶ」~同化能力が学びの原点 [6]

これからの子育てどうする?~子連れ出勤の事例:モーハウス [7]

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