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幼児虐待が起こるのはなんで?(8) 同化回路は再生できる!

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前回の記事 [3]では、密室化した家庭の中での子育てが、子どもの同化回路の成長を阻害しているということを見てきました。

明治に始まった村落共同体の解体と共に都市化・核家族化が進んだことによって、現代人の同化回路はかなり貧弱になってしまっているといえます。例えば親が自分の子どもに同化することもできなくなるくらいに。。。

また、社会圧力を遮断して閉鎖した空間になってしまった現在の家庭は、何が正しくて何が間違っているのかさえ判断ができなくなっているほど規範が崩壊しており、その結果が「虐待」として表出しているのではないでしょうか。

そして、親から虐待を受けた子どもは、上記以上にまともな同化回路を形成することができず、情緒障害に至ってしまう。。。負のスパイラルですね。

一方で、そんな閉鎖空間の中にいては全く何の可能性も見出せないため、お母さんたちは外に向かい始めました。

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るいネットの記事「ヤンママたちの閉塞」 [6]より

つい感情が抑え切れなくなって、気が付いたら虐待してしまっていた…、子供がどうしてもかわいいとは思えない…、などの思いが話されているらしい。

自らの子供を慈しみ、成長するまでの間何よりも優先して子供を守る…といった、かつてどの女性も持っていたはずの母性はどこへいってしまったのか?

(中略)

女たちは、親和存在であり、応望存在である、という観点から見ると、プライバシーの鎧で固められた現代家庭では、その対象は夫と我が子に限定される。それでも、夫も子供も親和対象となり、自分に期待を寄せる応望対象になり得るはずだ。

応望存在の前に依存存在であるというところに原因が求められるかもしれない。
得たいの知れない不安を抱かせる現代の危機的な状況の中で、あまりにも頼りなげな夫、女の商品価値は年々下がり、いつか崩壊してしまいそうな自らの拠り所。
さらに、かつて女たちが収束し得ていた子育ての役割規範も無くなってしまい、夫も新婚当初のような親和対象ではなくなってしまった。その結果、このまま年を重ねてしまっていいのかという不安の蓄積と自らへの問い掛けの繰り返し…。

悩める心を開きだす場を求め、仲間に救いを求めようとする母親たちの行動は、現代の閉塞状況に対処するためには、仲間・集団へという方向しかないことを示唆しているように思う。

シリーズ(5) [7]でも「ギャルママ」として紹介されていますね。このギャルママも、ちょっと前のヤンママにしても、どちらかと言えば世間から白い目で見られがち。その分孤独感や不安感は他のママに比べて大きかっただろうと予想できます。でも彼女たちには仲間がいた。唯一の安心基盤ともいえる仲間との結束はかなり強かったのでしょうね。

彼女たちの集まりは、ママたちが充足体験を積むことによって、不安解消になると同時に同化回路をフルに活用することにつながると思います。またいろんなお母さんがみんなの子どもを見守るというかたちが、子どもたちにとってもいろんなママやお友達との同化回路を発達させる良い空間になっているのではないでしょうか。

これは、前回の記事 [3]で紹介されていた、情緒障害児治療施設の事例に通ずるものがあります。

不完全な同化回路でも再生することができる!

これは虐待問題を解決に導く一つの可能性になりそうです。親が子どもを虐待してしまうのは、同化回路が錆び付いているからであり、今や現代人のほとんどは同化回路が錆び付いています。

しかし同化回路は再生することができるのです。だとすれば、その方法を考えればよいということになりますね。

ヤンママにしても情緒障害児にしても、『相手や仲間との充足体験が同化回路の再生につながっている』というところがポイントになっています。

次回は、”同化回路が形成しやすい環境”についてもっと追求してみたいと思います。

最後に、かつてお母さんたちが他人の子どもに対しても当たり前に同化回路を働かせて見守っていた姿を紹介します。

るいネットの記事「 虐待を断ち切る道のり 」 [8]より

>兄は八つか九つだったろうか。その下にそれぞれ三つちがいの私と弟がいたし、父の世話、世帯のやりくりで、母は眼がまわるほど忙しかった。
それでも、お隣りから火のつくような子どもの泣き声がきこえてくると、「ほら、また」
母は、洗濯ものを放り出してとんで行った。ご亭主はいつも留守だったような気がする。二十四、五の若いおかみさんは、やせて小柄なのにもう三人の子持ちで、おまけに下の二人は年子だった。年寄りもいなかったから、手がまわらないので、つい、かんしゃくをおこすらしく、よく子どもたちをピシャピシャぶっていた。
「子どもの頭をそんなになぐると、馬鹿になっちゃうよ、さ、かしてごらん」
母はおかみさんの手から赤ん坊をひったくり、いきなりおむつをあけて、
「この子のお尻はただれてるよ。子どもが泣くのはちゃんとわけがあるんだからね。そっちの子は連れ泣きだよ。どこもなんともないから大丈夫。兄ちゃんはおなかがすいてるんだろ、うちへおいで、おいしいおせんべいがあるよ」
ついでに台所で焦げついている里芋のお鍋をおろして、
「しょうがないね、今夜は湯どうふにでもするんだね」
と、晩のおかずの指図までして、上の子の手をひいてかえってきた。
~沢村貞子「私の浅草」より

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