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家庭の教育と社員(共同体)の教育って繋がってる?!~(3)子供の「なんで?」を喜び続けたい

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画像はぷみまる絵日記よりお借りしました
ぴったりの画像で、ありがとうございました。こちらのサイトもどうぞ

今回は「家庭の教育と社員(共同体)の教育って繋がってる?!」シリーズ3回目です。
1回目:家庭の教育と社員(共同体)の教育って繋がってる?!(1)プロローグ~子育て=人を育てるということ [1]
2回目:家庭の教育と社員(共同体)の教育って繋がってる?!(2)同化して充足する [2]

前回は「人は充足しながら成長する」、だから「子育てにおいてはなるべく一人の人間が囲い込まないようにし、学校・会社においては、うまくいっている人に同化していく」でした。
そこで今回は、副題にあるように【同化能力】の可能性について、どのように人間の成長と関係していくのかをもう少し掘り下げてみたいと思います。

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るいネットからの紹介です。
子供の「なんで?」を喜び続けたい。 [3]

~略~
「なんで?なんで?」ばかり言っていた自分の幼少期と符号しました。
小さい頃はニコニコ笑って一緒に考えてくれていた親や先生や近所の人たちから、小学生くらいになるとだんだん邪険にされるようになり、しまいには「人に聞かずに自分で考えなさい!」と本気で怒られるようになりました。

とはいえ日々湧き上がる「なんで?」追求を諦められませんでした。
疑問が浮かぶたびノートにメモして、図書館に入り浸ったりフィールドワークしたりして得た知識をもとにいくつかの答えらしきものを想定して書きつけ、ひとつひとつ事実を検証しながら、たまに自分の話を聞いてくれるやさしい大人や友達をみつけては『矛盾がないか、美しいか』を一緒に確かめてもらって答えを塗り重ね、より事実に近い答え(らしきもの)を見つけようとしていました。

小学生から大学を卒業するまで私の“なんで?ノート”は続きましたが、それらが持続していたのは、答えを得る喜びもですが『一緒に検証してくれる友達や先生と答えをみつけて共有すること』自体に大きな充足をもらっていたからです。
もし『正しい答えを最短の方法で知ること』を求めていたとしたら、よりてっとり早い方法で誰かから答えを与えてもらい、自己完結した瞬間に思考は停止していたと思います。
~略~
今自分が母になり、毎日毎日娘から「なんで?」攻撃にあうのが楽しくて嬉しくて仕方ありません。絵本を読んでいても道を歩いていてもごはんを作っていても子供の「なんで?」は止まらないのです。
娘はまだ4歳なので答えられる質問も多いのですが、時々ドキッとするような深い質問をされると、いかに自分がわかったふりをしていたか、一見当たり前のことを昔のように疑いも追求もせず思考停止していたかということに気づかされ、そのたび娘に感謝し続けています。

忙しい時にはつい「ちょっと待って、あとにして~」と言ってしまうこともありますが、自分が親から「あとにして」と言われてあとで聞いてもらえず寂しい思いをしたことをよく覚えているので、必ずあとから聞いて一緒に考えるようにしています。

「なんで?なんで?」→「スッキリ!」を繰り返す娘の様子を見ていると、正しい答えを即答した時よりも、一緒に「わかんないな~なんだろな~」とすり合わせながら答えをみつけていった時の方がはるかにワクワク・キラキラした表情をしています。
~略~
子供たちが物事を不可能視せず充足可能性にまっすぐ向かっていけるように、まわりの人たちとともに追求し続けて社会の次代を担う一員になってくれるように、いつまでも子供たちとの充足体験の積み重ねを喜び続けられる大人でいたいです。

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子育てでは充足体験を一緒に味わうことが重要なのです。仕事においてはそれが成功体験となるのだと思います。
このように人が育っていくには肯定観や肯定視が重要であると思います。
ところが、人は特に仕事においてはよく問題点探し(これって不可能視?)をします。これはどういうことなのでしょうか。以下引用です。

子供の「万能感」を潰してしまう現代教育 [4]

~略~そう考えると、本来人間には「不可能視」は存在しないはず。ではどこでこの不可能視が植えつけられてしまうのだろうか?
色々な切り口、結論はあると思うが「不可能視」を「実現を諦めること=追求を止めてしまうこと」として考えてみると、それは幼少期にあるのではないだろうか。

●子供特有の「なんで?」への親の対応がその後の追求力を規定する
幼少期になると子供はどんなことに対しても「なんでキリンの首は長いの?」「なんで夏は暑いの?ねぇなんで?」と「なんで?」を繰り返す時期が訪れる。
多くの大人は、自分が答えられる範囲ではその疑問に答えるも、自分が答えられない疑問だったり、段々と面倒になってきたりすると「うるさい!なんでも何もないの!」と一喝し追求を止めてしまう。
初めのうちは怒られながらも子供も「なんで?」を繰り返しているが、何度も叱られているうちに「なんで?」を諦めてしまう。
こうして幼心に、追求することへの諦観視が植えつけられてしまうとそれ以降もその子供は追求途中で諦めてしまう子供になってしまう。

●なぜそうなってしまうのか?
第一に、集団が解体された今の家庭において子育ては“非日常”であり、大人からすると無意味に感じる「なんで?」は単に煩わしいものでしかない。子供はそういうものである、という実感も無い。
(子育ての非日常化は、赤ん坊の泣き声に腹を立てる大人が多い理由の一端でもあるだろう)
第二に、近代教育の弊害か「正しい答えを出すこと」が是とされるため、「追求することそのもの」が実は重要であるという認識が無い。だから、大人自身が答えられない疑問には「そうなってるからなの!」と誤魔化してしまう。
一と二は関係しており、正しい答えを出すことを目的としているからこそ、答えられないような質問をされる子供の「なんで?」には煩わしさを覚える。

●ではどうするか?
まずは「どんな形であれ、追求し、答え(らしきもの)を出すこと」そのものに意味があるという認識転換が決定的に重要(子育てだけではなく仕事の場面でも同様の事が言える)。
そして実際に、子供から出てきた疑問に答えられなくとも、一緒に追求(辞書で調べたり誰かに一緒に聞きに行ったり)して答えを出してやること。

子供からすれば疑問の答えが正しいかどうかは重要ではなく、親とともに追求し答えが得られたということそのものが充足へとつながる。そして、その充足体験の積み重ねがその後の追求力を育んでいく。

もともと昔は子育ては日常的なことであり、現代のように出産を悩むようなこともなかったのではないでしょうか。さらにもう一つ引用します。

万能感とは全肯定の意識 [5]

今や成長するにしたがって、不可能視が増えてゆく社会である。出来ない理由が増えてゆき、出来ない理由を考えるという思考こそが、大人の社会であり仕事であるがごとく。
そういう思考は、子供の万能感や大胆な可能性の切り口を、ことごとく潰してゆくことになる。そして、その思考の根本には人に対する否定視がある。

太古からの人類本来の感覚として、まずは自然を肯定視するということから【可能性に収束する】ということが生まれたはずです。
【人が育つ】ということは、最初に不可能視ありきではなく、肯定視や肯定感を持ちながら、同化能力を使って充足可能性をつなげてゆくことだと思います。

次回は同化対象の中身を考えていきたいと思います。
以下は参考投稿です。
「なんで期」の復活 [6]

子供が何でも「なんで?なんで?」って興味を持って聞いてくる時期を、「なんで期」と言いますが、世間では、それはだいたい3歳頃から一年くらいで終了すると言われています。

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