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こどもは「万能観」の固まり

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こちら [2]よりお借りしました

日ごろ、勉強やスポーツ 躾etc 「教えなきゃ 」って無意識に思っているところありませんか。

「教える」「教えられる」が当たり前のように思っている現代ですが、ヘヤーインディアンの社会では、そんな意識や観念体系は存在せず、「誰かが出来ていることは、自らにも必ず出来る」という意識が存在しているそうです。るいネット「ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」 [3]は、子育てにとっても参考 になるので、日常の出来事からいろいろ考えてみました

同じ月齢の子のオムツが取れだすと、あせってトイレトレーニングを始めたりしたことないですか?
子ども自身の発達段階を無視して、育児書 を見ては、何歳までにこんなことができないとダメだと思いこんで、「教える」ことに熱心 👿 になっていたり。ところが、ある日大好きなお友達がトイレに一人で行くのをみたら、突然オムツがはずせたりするものです。あれだけ一生懸命教えても出来ないのになぜ

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子ども自ら「やりたい 😛 」と思えば、がんばってやるし、意外と出来ちゃうものです。
以前、夕食を作っているとき、カレーライス食べたいと言い出した6歳の娘。ちょうど材料も揃っていたので、「じゃあ、明日の分で作ってくれる?」と尋ねると、やる気満々 😛 。途中で投げ出すかなと内心思っていましたが、夕食を作る私の傍らで、炒めるところだけは一緒にしただけで、あとは一人でやり終えてしまいました。その顔は、「お料理はなんでもできるわよ」といった自信に満ち溢れたものでした。

考えてみれば、ヘヤー社会で無くても、子どもは「万能観」の固まりで、「不可能視」と言うものがない。自身の子どもを見ていても、(無謀にも)いろんなことを「(自分も)やってみる」と、大人のやることを真似てどんどんチャレンジしていく。
本来的に「同化」には「不可能視」など介在しえず、「同化するだけ」「やってみるだけ」と言うのが本質なのかもしれない。(当然同化過程における試行錯誤はあるが、それは「不可能視」ではなく、必ず出来ると思っているからこその試行錯誤と言えるだろう)

こちら [4]より引用

一方、こどもが「教えて」と言ってきたとき、深く教えようとするとなぜか嫌がることがありますね。例えば、折り紙を折っている途中でつまずいて「教えて」と言ってきたときに、その先々まで教えようとすると、「もういい」とちょっと怒った 😡 感じになったり。

一方で、「教える」「教えてもらう」と言う意識の根っこには、本質的に「不可能視」が存在しているのではないかと感じる。相手が”出来ない”ことを前提としているからこそ、「教える」必要があり、同時に自分は”出来ない”ことを前提としているからこそ「教えてもらう」必要がある。
「教える」「教えてもらう」と言う教育観を前提とした時点で、「不可能視」が介在し、あらゆる可能性に蓋をすると言っても過言ではないかもしれない。

こちら [4]より引用

親とすれば、「教えて」と尋ねてくれたので、あれもこれも教えてあげようと思っていろいろ話す訳ですが、その時点ですでに『相手が”出来ない”ことを前提』で話すから、子どもの方は面白くないのかもしれません。1~10まで全てを教えようとするより、引っ掛っているところだけを手助けしてあげる方がいいみたいです。

ヘヤーに限らず共同体社会において広く見られる”同化教育”においては「不可能視」が生じ得ないが、「教える」「教えてもらう」ことを前提とした近代教育制度の下では、子どものころから「不可能視」が刻まれる。
当然、そのような「不可能視」は外圧に対する突破力に対して大きな影響を与える。
このように考えてくると、「教える」「教えてもらう」を前提とした近代教育制度は、致命的な欠陥を孕んでいるように感じる。

こちら [4]より引用

小さいうちから自分で気がつく前に、大人が何でも「教えてしまう」ことは、同化する能力を貧弱にしてしまっているのです。

「教える」よりも、周りを見て「やってみたい」という気持ちを抱かせることが大切なのです。一人では決してやりたいとは思わないでしょう。一緒にやって楽しいと思え、周りに喜んでくれる人がいることが大事です。試行錯誤するうちに、その成功体験から問題を突破する力がついていきます
そして、「やりたい」と言い出したときは、万能感を損なわずにやらせてみるだけの心の余裕 をつけたいですね

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