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幼児虐待が起こるのはなんで?(1)そもそも虐待って何?

幼児虐待問題を考えるとき、良く出てくる疑問が「躾と虐待の違い?」だ。
躾が上手く行かなくて、エスカレートしてしまい虐待になってしまう?

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 ↑ 写真はコチラ [1]から

その他にも「叱ると怒るは違う?」等、色々と言われるし、そのような記事や書籍も沢山出されている。
最近では、母親が子供を叩いてしまい、「虐待かも?」と悩んでしまう事も多いとのこと。
こんな母親の悩み、迷いも、子供との関係をギクシャクさせ、虐待を招いている原因の一つとなってしまっている。

るいネット [2]に参考になるヘヤーインディアンの紹介投稿 [3]があったので紹介しておきます。

虐待問題を考えていく時に、ついつい、暗く悲しい気持ちになってしまいますので、まずは、充足イメージを持ってください。

ヘヤーインディアンの社会では、「教える」「教えられる」と言う意識が全くない。
それどころか、「だれだれから教えてもらう、習う」と言う言葉がヘヤー語=観念体系として存在していない。
よって、「師弟関係」も存在しない。

ヘヤー文化の基盤には「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」という大前提が横たわっており、人間に対して指示を与えることの出来るものは、守護霊(=精霊信仰における精霊観念)だけであると考えられている。
この為、「教えよう」「教えられよう」とする意識や観念体系が存在していないのだと考えられる。

ヘヤーの社会において、物事は人の行動を注意深く観察し、同化することで自然と身につくことであると考えられている。
例えば、自分のまわりにいる友人や従兄弟や兄弟達の猟の仕方、皮のなめし方、火のつけ方、まきの割り方などをじっくり観察することで、男の子は猟の仕方を、女の子は皮のなめし方などを身につける。
その同化能力は非常に高く、「子どもの文化人類学」の著者、原ひろ子女史によれば、自身が作った料理を、次の日にはヘヤーインディアンの女性が全く同じように配膳してあり、大変驚いたと言う。

更に着目すべきは、同化に対する不可能視の無さにある。
ヘヤー社会では、「誰かが出来ていることは、自らにも必ず出来る」と言う意識が存在している。
その為、(誰かを真似て)初めての行動を行う際にも「不可能視」が介在し得ない。
原ひろ子女史は、ヘヤー社会で1962年にフィールドワークを行っているが、その際、厳しい冬を乗り越えられるか不安になり、雪の上を移動する「かんじき」の使い方を身につけるべく、夏~秋の間に皆に教えてもらえるようにお願いした。
しかし、皆、口を揃えて「こんなことは、冬が来て、雪が降って、はいてみればわかる。
そして歩けばわかる」と言うのみで、誰も教えてくれなかったらしい。
(その後、原ひろ子女史は必至で皆のかんじきの使い方を観察し、身につけることになった)
ヘヤーインディアンには同化に対する不可能視が無いからこそ、誰かが出来ていることに対しては、(己も)「やれば解る」「やれば出来る」となる様である。

考えてみれば、ヘヤー社会で無くても、子どもは「万能観」の固まりで、「不可能視」と言うものがない。
自身の子どもを見ていても、(無謀にも)いろんなことを「(自分も)やってみる」と、大人のやることを真似てどんんどんチャレンジしていく。
本来的に「同化」には「不可能視」など介在しえず、「同化するだけ」「やってみるだけ」と言うのが本質なのかもしれない。
(当然同化過程における試行錯誤はあるが、それは「不可能視」ではなく、必ず出来ると思っているからこその試行錯誤と言えるだろう)

一方で、「教える」「教えてもらう」と言う意識の根っこには、本質的に「不可能視」が存在しているのではないかと感じる。
相手が”出来ない”ことを前提としているからこそ、「教える」必要があり、同時に自分は”出来ない”ことを前提としているからこそ「教えてもらう」必要がある。
「教える」「教えてもらう」と言う教育観を前提とした時点で、「不可能視」が介在し、あらゆる可能性に蓋をすると言っても過言ではないかもしれない。

ヘヤーに限らず共同体社会において広く見られる”同化教育”においては「不可能視」が生じ得ないが、「教える」「教えてもらう」ことを前提とした近代教育制度の下では、子どものころから「不可能視」が刻まれる。
当然、そのような「不可能視」は外圧に対する突破力に対して大きな影響を与える。
このように考えてくると、「教える」「教えてもらう」を前提とした近代教育制度は、致命的な欠陥を孕んでいるように感じる。

以上 引用終わり

ヘヤーインディアンに関しては、この投稿(「ヘヤーインディアンの社会に見る子育て観」 [4])も参考にしててみて下さい。

上記の投稿に有るように、基本的に子供は「まねる」ことによって、色々な事を覚えていく。
インディアンの世界では、「躾」は必要なかった。

現代は、何故「躾」なる物が必要になったか?
私などは「躾」と聞くと、「ペットの躾」を連想してしまうので、ちょっと調べてみました。

ウィキペディア [5]によると

「躾・仕付けまたは仕付」とは、人間または家畜の子供または大人が、人間社会・集団の規範、規律や礼儀作法など慣習に合った立ち振る舞い(規範の内面化)ができるように、訓練すること。概念的には伝統的な子供への誉め方や罰し方も含む。ドイツ語では、しつけのことを、die Zuchtというが、これは人に限らず動物(家畜)の調教、訓練の意味もあり日本語のしつけと同じである。

他にも、インターネットで「躾」と検索すると、「ペット」だけでなく、「夫」「彼」「新入社員」様々な対象が躾されているし、怪しげな躾?まで出てくる。
どうも、上位者が従者に対して、何がしかの意図を持った訓練を実施する と言う意味合いが強い気がするが、現代特有かもしれない。

語源辞典などによると、元来の意味は、「礼儀作法を身に付けさせる事」。
日本でも、公家や武士階級の身分序列社会において、礼儀作法をわきまえる事によって、家や自身のその威信を守ろうとしたのでしょう。
そのために必要であったのが「躾」で、主に上下関係での作法や教養を身につけることが目的でした。
身分序列社会においては、一つでも位が上位であれば、絶対服従の世界であり、作法に反していては生き抜くことなど出来なかったでしょうから、まさに生きていく為に必要だったのです。

仲間と議論した事を整理してみます。

<昔・・・村落共同体が成立していた明治以前の一般民衆を想定してみて下さい>
子供は、年長者(大人)のマネをしながらあらゆることを覚えていく。
集団・社会規範(村掟など)も同様であって、大人達が守っている規範をまねて覚える。
(ここで注意が必要なのは、規範とは禁止事項だけで無く、「こうすればみなが上手く出来る」といった、充足規範が寧ろ多いという事)
それでも、子供達皆が守っていけるわけではなく、守れていない場合は、大人達が叱ってくれる。
(次は、「上手くやれよ!」と期待を込めて)
そもそもの規範が、集団発(=集団の為)であり、「叱る」場合も自我は介在しない(=期待発信となる)。

<現代・・・一般的な核家族を想定して下さい>
両親、しかも殆どの場合は母親とマンツーマンの密室家庭に暮らしているので、まねる対象が狭く、マネて覚える事が極めて少ない。
(反面、母親からすると、とてつもない重荷。しかも、母親自身が学ぶ事も出来ず、どうしたら良いのか解からずに、「躾をしなければ!」と追い込まれる)
加えて、人夫々の現代社会では、拠り所となる集団規範も存在せず、充足規範どころか、何処まで禁止していけば良いのかも解からない。
結果、育児書はじめ規範となりそうな情報に収束し(=思い込む)、マニュアル的に子供をしつけてみるが、上手くいかず、その度にイライラしてしまう。(→不全感が募る→怒る≠叱る)
そもそもが、個人の思い込み(=自我)発なので、「怒る」は、自我発になってしまい、期待ではなく、否定が中心になる。
この意識構造が、極まった臨界点で虐待が起こるのではないだろうか?

これは、「虐待がこの様にして起こる」という一つの仮説です。

この話の中で、そもそも虐待って何?が、もう一つのテーマとなりました。
虐待とは、(これも一つの仮説です)
「密室・無圧力空間にて、自我発で怒る事、痛めつける事」
密室・無圧力空間の代表は、核家族家庭であり、痛めつけるのは、肉体的、精神的にも起こっています。

このシリーズでは、これから次のような道筋で、「虐待」の現象や、構造を解明して行きたいと考えています。
そして、最終的は、「充足に充ちた子育て環境の実現」に答えを出して生きたいと考えています。

シリーズ(2)虐待の実体(幼児他殺被害者数の分析)
シリーズ(3)虐待の実体(誰が、どんな状況で、虐待しているのか?~虐待が発生しやすい環境とは?)→世代、夫婦仲、貧困度、密室度、地域性、家族構成、虐待の連鎖 etc.
シリーズ(4)虐待の実体(貧しさは本当の原因なのか?)
シリーズ(5)虐待の法律(虐待防止法の制定)
シリーズ(6)虐待の法律(現在の法体系、行政施策に可能性が有るのか?)
シリーズ(7)虐待するのは人類だけ?→哺乳類や他の生物の親子関係ってどうなんだろう?本当の母性とは?etc.
シリーズ(8)「充足に充ちた子育て環境の実現」

是非、皆さんも一緒に考えて、コメント沢山下さい。

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