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2010年09月04日

ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」

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日常生活の中でも仕事においても直面する、教育や人材育成の事を考えるとき、私達の頭にはすぐに「教える」「教えられる」、「出来る」「出来ない」といった言葉が浮かびます 🙄

しかし、そんな意識が全く無いのに、人々が高い学習能力を発揮して生きている文化があります。

カナダ西部の北極圏で生きる、ヘヤー・インディアンの文化です。

「ヘヤー」はウサギのことで、彼らがかんじきウサギを主な食料としていることから、そう呼ばれているようです。日本の本州の1/4弱の面積に僅か00人~500人が漸く生きられるだけの食料しかなく、時には餓死者も出る苛酷な環境で、食料を求めて小グループに分かれて常に移動しながら生きている人々です。
参考:(『いのちの文化人類学』(波平恵美子:著)

今日は『るいネット』から、ヘヤー・インディアン社会の教育についての記事を紹介します。
(写真はこちらからお借りしました。)

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るいネット: 『ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」』より引用。
ヘヤーインディアンの社会では、「教える」「教えられる」と言う意識が全くない。それどころか、「だれだれから教えてもらう、習う」と言う言葉がヘヤー語=観念体系として存在していない。よって、「師弟関係」も存在しない。

ヘヤー文化の基盤には「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」という大前提が横たわっており、人間に対して指示を与えることの出来るものは、守護霊(=精霊信仰における精霊観念)だけであると考えられている。この為、「教えよう」「教えられよう」とする意識や観念体系が存在していないのだと考えられる。

ヘヤーの社会において、物事は人の行動を注意深く観察し、同化することで自然と身につくことであると考えられている。例えば、自分のまわりにいる友人や従兄弟や兄弟達の猟の仕方、皮のなめし方、火のつけ方、まきの割り方などをじっくり観察することで、男の子は猟の仕方を、女の子は皮のなめし方などを身につける。その同化能力は非常に高く、「子どもの文化人類学」の著者、原ひろ子女史によれば、自身が作った料理を、次の日にはヘヤーインディアンの女性が全く同じように配膳してあり、大変驚いたと言う。
(写真はこちらからお借りしました。) 

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更に着目すべきは、同化に対する不可能視の無さにある。
ヘヤー社会では、「誰かが出来ていることは、自らにも必ず出来る」と言う意識が存在している。その為、(誰かを真似て)初めての行動を行う際にも「不可能視」が介在し得ない。
原ひろ子女史は、ヘヤー社会で1962年にフィールドワークを行っているが、その際、厳しい冬を乗り越えられるか不安になり、雪の上を移動する「かんじき」の使い方を身につけるべく、夏~秋の間に皆に教えてもらえるようにお願いした。
しかし、皆、口を揃えて「こんなことは、冬が来て、雪が降って、はいてみればわかる。そして歩けばわかる」と言うのみで、誰も教えてくれなかったらしい。(その後、原ひろ子女史は必至で皆のかんじきの使い方を観察し、身につけることになった)
ヘヤーインディアンには同化に対する不可能視が無いからこそ、誰かが出来ていることに対しては、(己も)「やれば解る」「やれば出来る」となる様である。

考えてみれば、ヘヤー社会で無くても、子どもは「万能観」の固まりで、「不可能視」と言うものがない。自身の子どもを見ていても、(無謀にも)いろんなことを「(自分も)やってみる」と、大人のやることを真似てどんどんチャレンジしていく。

(写真はこちらからお借りしました。)

教えてもらって学ぶことと、観察して身につけることにどんな違いがあるのか?
イメージしてみると、教えてもらうよりも、観察して身につけようとする方が、実現過程で目に入る、あらゆる物や行為の繋がりと意味を自ら整理して体得する必要がある事に気づきます。その結果、一つの仕事を学ぶ課程で、物の性質や体の使い方、加えた動作の効果など、他にも応用が利く仕組みや構造の理解が同時に進み、それが新しい事を学ぶ際の吸収の早さにも、「出来る」という感覚の強化にも繋がっている様に思えます。

るいネット: 『ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」』より引用。
oyako.jpg本来的に「同化」には「不可能視」など介在しえず、「同化するだけ」「やってみるだけ」と言うのが本質なのかもしれない。(当然同化過程における試行錯誤はあるが、それは「不可能視」ではなく、必ず出来ると思っているからこその試行錯誤と言えるだろう)

一方で、「教える」「教えてもらう」と言う意識の根っこには、本質的に「不可能視」が存在しているのではないかと感じる。相手が”出来ない”ことを前提としているからこそ、「教える」必要があり、同時に自分は”出来ない”ことを前提としているからこそ「教えてもらう」必要がある。
「教える」「教えてもらう」と言う教育観を前提とした時点で、「不可能視」が介在し、あらゆる可能性に蓋をすると言っても過言ではないかもしれない。

(写真はこちらからお借りしました。)

「不可能視」が介在しない、というのは常に「どうしたら実現できるか」に思考が向かうという事だと思いますが、”出来ない”ことを前提とした教育観によって、少なからず、実現する為の経路を探索する思考を育む機会が奪われ、停止させられている事に気付かされます。

るいネット: 『ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」』より引用。
ヘヤーに限らず共同体社会において広く見られる”同化教育”においては「不可能視」が生じ得ないが、「教える」「教えてもらう」ことを前提とした近代教育制度の下では、子どものころから「不可能視」が刻まれる。
当然、そのような「不可能視」は外圧に対する突破力に対して大きな影響を与える。
このように考えてくると、「教える」「教えてもらう」を前提とした近代教育制度は、致命的な欠陥を孕んでいるように感じる。

ヘヤー社会の同化教育の事例を読むと、「教える」「教えてもらう」という教育観は、教えられる側が認識する事象の範囲や思考の射程を恣意的に狭めてしまう危険性を多分に孕んだものだという事に気付かされます。

また、ヘヤー社会では観察して身につける事の全てが生きることに直結した課題です。しかし、我々が教育と称して教え、教えられる主に観念的な内容には、現実には役立たない観念群も多分に含まれています。

紹介したヘヤー社会の事例からは、今おかれている外圧状況の下、生き抜く為に何を身につける必要があるのか、近代観念に基づいた制度による社会が綻びを見せている今、新ためて人間の原基構造にまで遡って再考する必要がある事を実感します。

最後まで読んで下さってありがとうございました

投稿者 willow : 2010年09月04日 List   

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コメント

おもしろい記事のご紹介、ありがとうございます。

確かに、仕事場面でも「教える」「教えられる」を前提にしていると、結果”その”仕事しかできないこと、実は意外と多いと思います。
長い目で見たときに、成果がきっと全然違うでしょうね。
”不可能視”が介在しないことのすごさを感じました。

投稿者 PAN : 2010年9月5日 23:42

同化には不可能視が存在しない☆
なるほどと思いました♪

教えてもらうことを前提としているのは自分にはできないと思っているからなのですね><
ゆきづまったときは、子供やヘヤー社会の万能感を思い出してみようと思いました。

ありがとうございました(*^^*)

投稿者 すみれ : 2010年9月6日 00:55

>ヘヤーに限らず共同体社会において広く見られる”同化教育”においては「不可能視」が生じ得ないが、「教える」「教えてもらう」ことを前提とした近代教育制度の下では、子どものころから「不可能視」が刻まれる。

これ、すごい驚きです。
確かに子供の頃ってなんでも出来そうな気してましたもんね。それが大人になった今となってはやる前から「出来るかな?どうかな?」って考えちゃったり。
不可能視が無いっていうのはすごいことですね!

投稿者 タイ : 2010年9月6日 19:01

不可能視がない、と無能を自覚するというのは、どういう関係があるのかが気になりました。

不可能視はない方がいい、だけど、自分は無能であるという自覚も成長や既成概念の転換には必要。
この二つって、相反するものなのではないかと思いました。

自分なりに考えて分かったのは、不可能視がなければ、もともと無能の自覚はせずとも
>誰かが出来ていることに対しては、(己も)「やれば解る」「やれば出来る」
と出来なかったことがあってもすぐに出来てしまうのかも、また、出来るようになろうと自分で試行錯誤出来るのでしょう。
無能を自覚できていない人とは、自分が実現できていない現実を捨象し、実現しようとはしない、実現する方法を追求しようとはしないことなのかもしれないです。

だから、不可能視がないというのは、
>常に「どうしたら実現できるか」に思考が向かうという事だと思いますが
ということだと、私も感じることが出来ました♪

投稿者 emam : 2010年9月8日 14:35

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