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つなぐ社会∞紡ぎ合う次代5~みんな期待に応えるには、現実否定→倒錯思考の旧観念では使えない~

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前回のキーワードは、『次代の活力源は、「みんな期待」に応えること [1]』でした。
可能性に向かって、集団を出て、みんなの期待に応えようとしている事例を紹介しました。
しかし現実には、みんなで共認形成できる場と新しい認識がなかなか生み出せていません
何か原因があるのでは?という宿題が出ていました

ということで、今回はシリーズ5回目
答えを求めて引き続き、『次代を読む [2]』から続きを紹介をします

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少々長くなりますが、2つに分けて引用します。

旧観念無用。役に立たない観念など、もう要らない

しかし、出口が見えないということは、これまで人々に一方的に発信し続けてきた学者や芸術家やマスコミなどの専門家たち=発信階級の撒き散らす旧観念が、全く役に立たないということである。現に、社会が全面的な行き詰まりを見せているのに、彼らは未だに何の答えも出せないでいる。
 何故か?彼ら発信階級は表現することでメシを喰っている単なる表現者であり、現実の圧力の真っ只中で生きる人々を外から眺める傍観者に過ぎないからである。現実から逃げて、発信階級の道を選んだ只の傍観者に、現実の真の姿が見える訳がないし、現実に使える認識を生み出せる訳がない。
 それだけではない。実は、古代宗教や近代思想に代表される旧観念の深層には、現実からの逃避ベクトルが深く刻印されている。それは、私権闘争が必然的に生み出す戦争や支配や貧困などによって、現実世界が否定すべき「苦」の世界としか感じられなかったからである。しかも、万人が私権を共認し、誰もが私権の獲得に収束している以上、それによって作り出された現実世界を変革することは不可能である。だから実現不可能視を刻印された知識人たちは、現実の中に可能性を求めるのではなく、頭の中だけに閉ざされた充足を求める(当然それは決して実現されることがない)倒錯思考に嵌り込んでゆき、こうして現実(の自分や人々)を非充足のまま放置して頭の中で代償充足を与えるだけの観念=神・恋愛・自由・個人・人権などの架空観念(現実には存在しない、頭の中だけで作られた観念)しか生み出してこなかった。
 言うまでもなく、誰も実際には(つまり、頭の中だけではなく下半身も含めて)現実を否定することなど出来ない。

ところが、私権時代の旧観念(宗教や思想)は全て、この異常な現実否定意識に基づいて作られている。その証拠に、これまで現実を否定する意識は、常に暗黙の内に正として意識され、現実を否定する意識そのものを疑うような意識は、全く登場してこなかった。例えば、「我思う(デカルト)」ことそのものに対する懐疑(例えば、全てを疑う自分がおかしいのではないかという疑問)は、針の先ほどの疑問さえ全く生じ得なかったのである。これは、現実否定→倒錯思考が、私権時代を貫く思考のパラダイムである事を示している。  

なんと、問題を解決するために必要な観念がそもそも間違っていたということなんですね
現実の問題を解決しないといけないのに、それに使われるのが現実を否定したところから生まれた観念なのですから、解決するわけがないですよね

おかしな観念はたくさん登場しています

例えば、嫌煙権
煙草より、肺に悪いと言われている排ガスには一切触れられません :confused:

例えば、人権
人権が大事という権利観念は与えられれば与えられるほど、人間関係は希薄になっているように思われます 🙁

参考に、人類の観念史の年表を紹介しておきます

人類の観念史 [3]

引用を続けます 🙂

「知識人」が撒き散らす旧観念こそ、全面的な閉塞状況を作り出した真犯人である

しかも、現実に背を向けたその狂った観念が、人々の頭の中を支配してしまっている。その結果、人々が何か物を考えようとしても、その観念を足がかりにするしかないので、考えれば考えるほど狂った観念世界に嵌り込んでゆき、まともに物を考えることが出来なくなる。だから、まともな人々は、むしろそんな観念など見向きもしなくなり、物を考えることまで止めて終った。全般的な思考停止である。
 この社会は、人々の共認によって成り立っている。従って、共認形成こそ、社会形成の生命部である。だが、その共認形成が発信階級によって支配され、しかもその中身=観念が狂っているとしたら(そしてその結果、普通の人々は思考停止状態にあるとしたら)、社会は全面閉塞に陥るしかない。
 現代社会の至る所で噴出する異常現象は、全てこの異常な現実否定→倒錯思考の観念パラダイムが生み出したものであると言っても過言ではない。しかも、その旧観念は、新しい可能性の出口を塞ぎ、人々の活力を奪い取ってゆく。従って、知識人が撒き散らす旧観念こそ、この社会を全面閉塞させた真犯人なのである。

社会を形成していくための生命部である共認形成が、マスコミや学者などの発信階級によって支配されてしまっていることが問題なんですね 🙁

そして、教育の場でも、知らず知らずのうちに旧観念が刷り込まれています
るいネット [4]から、いくつか記事を紹介します

公教育の成立構造を考える③~キリスト教による洗脳教育~(佐藤祥司) [5]

>キリスト教の布教と教育とは切っても切れない深い繋がりがある。
 例えば、17世紀初頭のアメリカ侵略には牧師が同行し、学校を組み込んだ教会が次々と造られていった。また、12世紀中頃からの大学の設立もローマ教皇が主導している。

近代教育思想の礎を築いたルソーの現実の姿とは(新川啓一) [6]

>フランス革命、そして後の民主主義、個人主義に多大な影響を与えていったルソー。
さらに1762年に刊行された彼の著書「エミール」は、現在も近代教育論の名著とされ、日本でも教育界に大きな影響を与え続けています。
一方、ルソーの現実の姿は多くの方が指摘しているように、崇高な思想や教育論を語る人格者と言えるものではなく、むしろ人格破綻者といえるものでした。

近代思想に立脚した教育は子供を思考停止させる(船長) [7]

>親がしばしば言う台詞の中に、「みんな仲良くしなさい!!」や「あなたの自由にしなさい!!」がある。
でもこれっておかしい。子供からすれば「みんながやってることを一緒にやればいいのかなー?それとも自分のやりたいことをやればいいのかなー?」という矛盾が生じ、どうしたらいいか分からない状態に陥る。
つまり子供を混乱させるだけで全く役に立たない。

このように、狂った観念が人々の頭の中を支配してしまっているのです 😥

では、どうしたらいいのか?

については、次回をお楽しみに 😀

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