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つなぐ社会∞紡ぎ合う次代2~若者は脱集団からみんな収束へ~

 さてシリーズ第2回目となりました。

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 前回は、私権原理、序列原理が崩壊し、既存の集団はガタガタになった一方で、私達の意識は共認原理に転換しつつあるというところまで押さえました。

 ではそんな中、今回はみんながつながって行く可能性の萌芽は、どの辺にあるのかを追求していきたいと思います。
 でははじまりますが、その前に応援クリックよろしく!

それでは早速「次代を読む [1]」から引用です。

 

若者は先行して仲間収束を強め、共認原理に導かれて仲間第一の空間を形成してきた。いじめが深刻化したのも、仲間絶対の故である(昔は仲間より私権第一であった)。

 しかし、仲間と言っても、その大半は学校(or企業)の中で形成された仲間でしかない。ところが、家庭であれ、学校であれ、(もちろん企業であれ)、私権の獲得という目標に収束することによって統合されてきた集団は、貧困が消滅して私権への収束力が急速に衰弱したことによって、統合力を失い、ガタガタになってきた。今や、それら私権集団は閉塞するばかりであり、それらの集団の中で答えを求めても、そこには何の可能性も残されていない。

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>多くの若者が、「家庭は面白くない」「学校は面白くない」「企業はもっと面白くない」と感じており、そこが自分の本当の居場所だと思えなくなってきている。仲間空間さえ、何の課題もない表層的な仲良し空間でしかなく、その中でいくら探しても答えは見つからない。だから、いつも「何か面白いことはないか」と探し求めている。

 ここで紹介したいのが、若者の離職率のデータです。

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これを見ても分かるように、近年3年以内に離職する若者が増えています。

 この現象をどう捉えるのかは、様々な見解があるとは思いますが、一般的に言われているのは「理想と現実のギャップ」です。では彼らの求めている理想とは一体何なのでしょうか?

 それが「共認充足」だと思います。要は誰かの期待に応えて充足したいという想い。
 まさに私権原理から共認原理に転換したからこと、この「共認充足」の可能性が開かれた、にもかかわらず相変わらず企業は「私権原理」で動いています。
 それこそが彼らの「理想と現実」のギャップを引き起こしているといえそうです。

>そこで、新たな可能性を求めて「集団」の外に、新しい仲間を求めようとする。これが、メル友・旅行・イベントや路上のオープンカフェや人間ウォッチングやパフォーマンス等に向かう、人(みんな)収束の潮流である。

 共認充足をもとめた若者達が、集団の外に仲間を求めようとする現象はさらに加速してそうです。
 事例の一部を紹介します。

○ツイッター [2]
個々のユーザーが「ツイート」と呼称される短文を投稿し、ゆるいつながりが発生するコミュニケーション・サービス。日本では「つぶやき」と意訳され定着している。

○ブログ
ウェブサイトとしての体裁は主として管理者が記事を投稿する私的ニュースサイト、あるいは日記である。
現在の状況としてブログは市民権を得ており、最近では人気タレントや政治家、その他著名人などによるブログも増加し、着実に普及している。

○Amebaなう
Amebaなうとは、サイバーエージェントが提供するミニブログである。Amebaなうでは、投稿されるつぶやきは「なう」と呼ばれる。

○勉強会
「勉強会」とは,「特定のテーマやトピックについて一緒に学ぶ有志の集い」のことです。

○ガールズトーク
女性どうしでする世間話。親しい女友達とうわさ話や恋愛、男性観などについて話し合うこと。

○mixi(ミクシィ) [3]
同時期に開始したGREEと並び、日本では最も早い時期からサービスを展開しているSNSの1つである。

>これは、これまで私権を確保しなければ生きてゆけないという否も応もない私権の強制圧力によって無理やり「集団」に封じ込められてきた人々の、「集団離れ」現象だとも言える。実際、離婚や未婚の増加も、フリーターや引き篭もりの急増も、学生のキャンパス離れも、不正に対する内部告発の激増も、全ては「集団」からの離脱の動きである。

 「次代を読む」は2001年の文章です。

 この段階では若者達は「集団離れ」という状況にとどまっていたのですが、ここで幾つかの事例を見てみると分かるように、すでに若者は集団を「離脱」しているだけでなく、新たな集団を超えた「つながり」を構築し始めているといえるのではないでしょうか。

 そしてこの「つながり」こそが新たな次代を紡ぎ出す、集団を超えたつながりの萌芽なのではないでしょうか。

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