『こんな子育てがしたい』シリーズ11回目です。今までの記事は、
こんな子育てがしたい♪~共認充足がなければ生きられない [1]
こんな子育てがしたい♪~共認機能の形成過程~ [2]
こんな子育てがしたい♪~子供には共認充足体験を~ [3]
こんな子育てがしたい♪~ミラーニューロンと共認機能 [4]
こんな子育てがしたい♪ 『話す』は、『応える』!! [5]
こんな子育てがしたい♪ 子育てにおける自然の摂理の重要性 [6]
こんな子育てがしたい♪ 自然の摂理より気づく子育て(2事例) [7]
こんな子育てがしたい♪「遊んじゃだめ勉強しなさい。」っておかしくない? [8]
こんな子育てがしたい♪~アトピーや喘息の原因は?どうやったら治るの? [9]
こんな子育てがしたい♪~「農」で心を開く!? [10]
さて今回は、子育てに必要な「大らかな気持ち」とその為の「自分から心開く」についてです。
どうやら現代の子育ては不安だらけのようです。
「熱がなかなか下がらない。どうしたんだろう?」
「離乳食を食べてくれないけど、このままでいいのかな?」
「育児書に書いてある月齢の成長より遅いみたいで、どこか具合悪いのかな?」
更にはこのようにお母さんが不安になるのも、
「(お母さんとして)もっとしっかりしなきゃ」
「親に甘えたことが無いので子どもが甘えてきてもどうしたらよいか分からない」
「何時もいい子にしていなきゃ」
という「自立」を促す規範があるようです。
考えてみれば、お母さんになる現代の成人女性も、その幼少期に充分な親和充足を欠いている事も少なくない上、周囲に親族や知り合いの少ない都会生活の中で頼るべき人が居ない、或いはお母さんになるなら当然一人で子育て出来なければならない、という思い込み、などなど…様々な規範観念で、ガチガチになっているようです。
こうした問題の根底には「甘え」と「自立」という、成長期に誰もが経験する「甘えちゃいけない」「自立しなきゃいけない」という「こうあるべきの観念」が解決しないまま、今度は自分が子どもを育てる、しつける側になってしまう、という現代社会の特性が有るように思います。
るいネット [11]より関連する投稿をご紹介します。
お母さんになることが安心できる社会に [12]
>乳幼児期の母親との親和充足(笑顔の交信やスキンシップによる安心感)が人格形成上決定的に重要であるにもかかわらず、スキンシップが充分できていない場合、子供は親和不全(怯えに近い不安)に陥る。しかし、赤ん坊にとって母親は絶対存在であるため、親和が得られないのは「自分が悪い」からだと自己攻撃し、己の欲望や期待を封鎖して、母親から与えられる規範観念(「ああしなさい、こうしなさい」「それしちゃダメ」etc)にひたすら収束する。<
[13]
母親への同化収束力が強すぎるために母親以外は同一化の対象にはなり得ず、仲間圧力=同化圧力も表層的だけでやり過ごしているようです。先日、乳幼児期の子供を持つ母親と保育士の交流のTVを見ていて、「ああ、こういうことなんだ。」と投稿を読み構造的に理解できました。
生後3ヶ月の子を持つお母さんは「どうしたらいいのかわからなくなる。ずっとこんな状態が続くのかと思うとすごく不安。食事も喉を通らないほどに疲れている。」
出産後もいわゆる実家には帰らず一人で子育て。何故、実家のお母さんに手伝ってもらわなかったのかと問えば、母親に甘えたことがないから方法がわからない。
他にも2、3人のお母さんも同じようなことを発言していました。
「親に甘えたことがないから自分の子供が甘えてきてもどうして欲しいのか分からない。」
「いつもしっかりしなさいと言われ続けてきた。おりこうさんでいることが母親を喜ばせると思っていた。テストで悪い点を取ると頭の上からランドセルの中に入っている物を投げ出されたりして、ひどく叱られた。」
「押入れに入れられたりして暗い怖いと泣いていた自分を思い出す。」規範観念に収束し親に甘えた記憶や充分に受け入れられた(受け止めてもらう)記憶がないまま母親になることの弊害を見た思いがしました。
母親の不安が母親から全ての力を萎えさせ疲弊させる。
子を抱きあやす表情も虚ろに見えました。
そんな親しか子どもが見たことがなければ同じように無表情で食も細くなり身体的にも成長が遅れ、其のことがまた不安材料になるという悪循環を招いていました。
子育てをしていて感じたのは親が不安になれば直ぐに子供は感じ取るんだということ。
「熱がなかなか下がらない。どうしたんだろう?」
「離乳食を食べてくれないけど、このままでいいのかな?」
「育児書に書いてある月齢の成長より遅いみたいで、どこか具合悪いのかな?」
心配すればするほど親の期待に反する結果となることがほとんどであったと記憶しています。子育てに必要なのは大らかな気持ちと「ゆっくりでいいんだよ。」みたいな敵切な言葉をかけてもらうこと。
これだけでも随分と気持ちは楽になります。
ホッとして肩から力が抜ければ笑顔も出るし、考える余裕も周りを感じる余裕も生まれます。「闘争と生殖」の分断が及ぼす影響の大きさと子供はみんなで育てることの意味を若いお母さん達は否応なしに感じ取る時期に来ているんだと思いました。
親和欠損→誰も助けてくれない=自分がやらなきゃ→焦りや自分勝手な思い込み→いつも不安、というのが現在のお母さんのようです。しかし、少し前の子育ては、農村共同体の集団での子育てや、昭和の頃の近所のおばさんなどによる助け合いなど、一人で行うものでは到底無く、周りが助けてくれる事が多々があるので、出来ないことをむしろ隠さず大らかに開きだす余裕がある状態で、現在とはずいぶん異なるようです。
〈昔の子育て;みんなでおっぱい〉
〈昔の子育て;子守〉
画像はこちら [14]から
確かに現代は、肉親などは遠くに居て、隣人などもそう当てには出来ない、など、心配が高じる状況ではあります。しかし、そうなってしまったで済ますのではなく、改めて「みんなで子育て」を模索する必要があるでしょうし、その為にも「自分から心を開く」が必要かと思います。
思えば全く一人で生きている人は居ないわけで、自分が求めれば助けてくれる誰かは多かれ少なかれ必ず居るのではないでしょうか?そしてHELP!のサイン感じたなら、周りの人々はどんなことでもいいので協力してあげること、例えば旦那さんであれば「大丈夫!!」とお母さん(奥さん)を安心させること、が出来るはずです。心開いて助けを求める→助けてくれたら素直に感謝する、を繰り返してくことで、何時しか自分も安心感を得るようになるのではないでしょうか?
もう一つご紹介します。
例えば自分の足の裏に感謝してみる。 [15]
「(心を開くためには)もっとも身近な存在、例えば自分の足の裏や、身近な植物に対して自分の1日や生活を振り返って具体的に感謝してみる・・・」
彼は心を開くことを相手に委ねる事、相手に包まれている充足感として捉えています。要するに余計な思いを棄てよ!という事なのだと思いますが、その鍵になるのが、応えてくれる相手にたいする感謝の思い(の回路を強くしていく=太くしていく)という事である様です。
「心を開く」=「おおらかな気持ち」になる為には、「感謝」が必要なようです。このお話の詳しくは次回にして、最後に前段で指摘した「甘え」についてですが…。
「甘え」とは依存です。特に赤ちゃんは全面的にお母さんに依存しているので、何かといえば「甘え」てきます。この甘えをしっかりと受け止めることで、赤ちゃんは安心感が得られます。しかし、少し成長してくると甘えてばかりいてはいけない、甘えを戒めねばならない=しつけ、とお母さん自身が考えるようになります。
ここでいう自立とは何でしょうか?思えば、大人でさえ誰かに依存する事が多々ある中で「甘えてはいけない」と言う規範は、「他人に迷惑を掛けない」というそれぞれの都合を尊重する個人主義的な余所余所しさがあるように思えます。仮に誰かに依存=甘えてしまったとすれば、しっかり感謝すれば良いのではないでしょうか?又誰かに頼られたらしっかり応えてあげて、しっかり感謝されれば良いのではないでしょうか?こうして人間は互いに助け合って生きていけるし、他者の痛みや思いも分かり合えるようになるのではないでしょうか?
これらは、親子関係でも全く一緒で、こうした甘えが許されない異常な圧力にさらされることを『親和欠損』と言うのだと思います。
「甘え」を許さないのではなく、甘えたら感謝する、次には自分が助けてあげる、を肝に銘じておけば、甘えることもそう悪いことでは無い様に思えるのですが、如何でしょうか?