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現行の『婚姻制度』~その中身と成り立ち(5) 村落共同体の規範について

 
みなさん、こんにちは☆

今回は「村落共同体の規範について」 [1]お送りします♪

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村落共同体の規範について [1]

”村落共同体の規範”とは一体どのようなものなのでしょうか? 🙄
現行の婚姻制度との関連を軸に進めていきたいと想います☆ :tikara:

「規範」は、集団の存続のために成員によって主体的に定められるルールであると思います。それに対して規範やルールと聞けば、反射的に自分にとってマイナスであるもの、他律的なもの(誰か自分と関係ない人がつくったもの、押し付けられるもの、縛り付けるもの)としてイメージしてしまう発想は、主体的な参加による集団形成の機会を奪われた奴隷の思考方法に他ならないと考えています。

では、詳しくみていく前に、いつものポチっと☆お願いします 😛

規範というと、現代人はとかく「自分の行為を縛り付けるもの」と捉えがちですが、実際にはかなり異なる位相にあります。規範がなぜ、どのようにして作られたものなのか?を歴史に学んで行きましょう。

ちなみに村落共同体における規範は、一般的にはムラオキテとムラギメに分かれるそうです。

ムラオキテというのは、継続的な公則の基本法にあたり、そうめったに変えられるものではなかったようです。
一方ムラギメのほうは、具体的な執行法にあたるのですが、毎年の初参会で決められ、またムラの集会で状況に応じて随時変更されるものであったようです。(推測ですが夜這いについていえば、機構そのものの基本はムラオキテであり、具体的な規制等についてはムラギメにあたるのでしょう。)

同じ決めごとであっても、外圧状況の変化に応じてその具体的内容についてはかなり柔軟に対応していたようです。

 ムラオキテ普遍構造

 ムラギメ 可変構造

これは、自然の摂理にかなった、「安定と変異の両立」とも言い換える事が出来ますね。

先人の知恵であり文化的な伝統でもあるムラオキテを継承しつつ、より具体的な事柄については、主体的な合議によるムラギメを併用していたと考えられます。
補足的に言えば、ムラにも階級や権力が全く存在していなかったわけではないでしょうが、若衆組や子ども組などの年齢別の階層組織の自主管理性が重んじられていたことなども考え合わせると、他律的な規制に従わされていたなどというのは誤った歴史認識だといえるでしょう。

またムラの規範や夜這いのルールは、それぞれのムラによってかなり多様であったようで、全く同じものはひとつとしてないとも言われていることから、私は近世の村落共同体というのは、自治性、独自性の高い共同体だったのではないかと考えています。

多様性というのも、各村々の置かれていた状況の差異から自然と育まれたものですね。
自主管理というと、「自分の事は自分で」と捉えるのは近代的価値観による自己正当化になってしまう。

本来の自主管理とは、「自分達の事を自分達で決めて守る」事を意味する。つまり、誰もが主体的に組織管理を担う事によって初めて共同体が成立する、という事を意味しています。

そうした規範を何故遵守していたかということについて一言でいえば、集団の存続のためでしょう。おそらく当時のムラの成員のなかにも規範を疎ましく思う感情も一部存在していたとは思いますが、だからといって掟を反古にしてしまうことを正当化してしまっては、共同体は解体してしまうと分かっていたのでしょう。資本主義と国家による中央集権体制が導入される以前は労働市場も確立されていないわけですから、都市に流れて生活を営む余地もあまりなく、まして自由を謳歌することなど望めない時代であったことから、当時においては共同体が解体するということは、同時に個人も存在基盤を失うことを意味していたのではないかと思います。

こうした時代状況を背景に村落共同体は成立していたと考えられるわけですが、集団の存続が第一義であるからには、「規範」が集団の存続にとって好ましくない個人の欲望に優先するのも当然であり、その掟にどうしても従えないというのであればムラを出ていかざるを得ないというのも至極当然のことだったのでしょう。

一般に歴史は不可逆であるので、現代人が昔に逆戻りすることはありえないわけですが、「規範」は自らが主体的に参加して守っていくものであるということは、もっと普遍的に捉えられるべきことなのではないでしょうか。

個人よりも集団が優先される。これをすぐに「全体主義だ!」等と短絡的に解釈する人がいますが、それは大きな間違いです。個人の存続基盤は、今も昔も集団の中にあります。人は集団動物であり、共認動物である、という事実が前提にあり、みんなが充足するにはどうする?という事に常に意識を向けていれば、そこには常にみんなの意見を尊重した自律的な集団が形成されます。

どうしても自分の好きにしたい、という人間だけは村八分になるのも当然ですが、「自分だけの充足」と「みんなと共に充足」する事のどちらがより深い充足に繋がるか?

少し考えれば、誰にでも理解できる事ですね

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