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現行の『婚姻制度』~その中身と成り立ち(2) 夜這いの解体1

さて、先週からスタートした「婚姻制度」の成り立ち追求シリーズですが、ここ日本において現在の婚姻様式が制度化されたのはそもそも何時頃かというのは、皆さんご存知ですか?

世界中を見渡せば現在でも非常に多様な婚姻様式が見られますが、勿論日本でも昔から一夫一婦制が確立されていた訳ではありません。

日本で本格的に法制度として婚姻が制度化されたのは、明治時代。

ほんの200年前の出来事だった訳ですが、では制度化される以前の婚姻様式はどのような物だったのでしょうか?

よくよく考えてみると、学校でも歴史の授業があるにも関わらず、婚姻様式の歴史を教わった経験は皆無です。婚姻にも様々な歴史があるのに、それを教えようとしないのって、なんだか不思議ですよね。

むしろ、「性」や「婚姻」といったものは人類(生物)にとっても最基底部の規範であるにも関わらず、その事を追求したり議論したりする事自体がタブー視 されている感すらあります。

しかし一方では、離婚・晩婚化への歯止めが利かず、「そもそも結婚ってしなければならないものなの? 🙄 」といった疑問も頻繁に耳にするようになってきました。一夫一婦制を常識としつつも、このような疑問が生じてくる背景には、現行制度への不安視やそこに収束しきれない現実があるから。

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肉食 :tikara: か 草食 か?といった表面的な議論ではなく、もっと本格的に制度の成り立ちやその背後に潜む意図、そして改めて充足規範としての男女関係や婚姻制度を見直していく段階に直面しているとも言えます。

そこで、まずは一夫一婦制への転換期に視点を移し、制度確立の過渡期の状況を再度押さえ直して行きましょう。

夜這いの解体と一夫一婦制の確立1 [2]
より

現代の結婚制度を客観視するために、現代の結婚制度の確立前の男女関係の様式である夜這い解体と一夫一婦制の確立について、触れておきます。

夜這いの解体と一夫一婦制の確立1~4は、「村落共同体と性的規範」赤松啓介 からの引用です(省略部分あり)。

明治政府などに対しては、厳しく書いてありました。

<江戸時代 性民俗は多重的>
夜這いというのは、ムラで一人前に育った男と女との性生活を、どうして維持したら最も矛盾が少なくできるだろうかという実践的方法論である。したがって、そのムラの創成の歴史、社会構造の基盤、住民の意識構造の違いによって、いろいろ変化するのが当然であった。厳密にいえば、一つとして同じものはないことになる。
21TMD7RKCBL__SL500_AA175_.jpg [3]すくなくとも、徳川後半の日本の全国のムラでは、夜這いは、ありきたりの、どこでもやっていた性民俗なのである。

だいたい夜這いは自村、ムラウチ限りが主体で、他のムラへ遠征するのは法度である。村内婚を主とした段階では、夜這いも一つの結婚形式というべきもので、排除されるような民俗ではない。私は夜這いが次第に固定されるようになったり、妊娠などの機会に同棲生活になったと思う。つまり結婚などという儀礼に固まったのは極めて新しい大正以後の習俗で、古くは夜這いの積み重ねによって自律的に夫婦と同棲関係に移ったのである。したがって徳川時代には三婚、五婚などという重婚も珍しくない。もとより三婚、五婚などというのは幕府の法意識による査定で、農民たちには無関係であった。

要するに農民の男女の共同、共棲意識は極めて流動的なものであって、儒教的夫婦意識ではとても理解できなかったのである。彼、彼女たちの共同、共棲関係は、常に流動的、相互的であって、子供は母が養育したので、不特定多数の男たちの責任を追求する意識はなかった。そうした現実を直視しない限り、夜這いの実在を認識する方法も、手段もない。

「夜這い」という言葉をご存知の方は多いと思いますが、「夜這い婚」となると全くイメージが沸かない方も多いのではないでしょうか?

実は、日本では昭和40年代近くまで、村によっては夜這い婚の風習が残されていたと言われています。上記紹介文中にも書かれているように、明治時代に法制化された後は、政府の強制圧力(夜這い禁止令)が度々発せられたにも関わらず、充足可能性のある夜這いの風習は色濃く残されていたようです。

現在の一夫一婦制とは180度異なる性様式であり、とても大らかで柔軟、かつ多様性のある形であり、何よりも村人全員が共認充足の得られる仕組みであったのでしょう。しかし、強制圧力と同時に西洋化・都市化が進み、性的幻想価値の高まりと共にじわじわと解体されていきました。(この辺りの詳細は後日改めて扱います。)

良い機会なので、「夜這い婚とは何か?」をもう少し詳しく見てみましょう。

夜這い婚 [4]

「夜這い」の起源、あるいは全国でここまで広く行われていた理由については、諸説があります。

ひとつは、集団婚、妻問婚の名残とみる説です。
集団婚という婚姻形態は、ひとことで言えば複数の男と女がグループで婚姻関係を結ぶもので、日本を含めて採取時代から歴史的に長く行われていたかたちです。
また、妻問婚とは、男が女性のもとへ通う婚姻形を指しています。
この場合、語源についても「夜這い」→ヨバフ、ヨブ(男を「呼ぶ」)と解されているようです。
高群逸枝などが、こちらの説に依っています。

もうひとつは、近世郷村の農村社会に固有の様式、とみる立場です。赤松啓介はどちらかというとこっちに近い。つまり夜這いは、ムラの置かれた現実の状況(特に経済状況)に対して、村落共同体という自治集団を維持していくための実質的な婚姻制度、もしくは性的規範であるとする見方です。

ちなみに赤松は、「夜這い」を二つの類型に分類しています。

「総当り型」
若者に加え、既婚者も夜這いの参加を認める型(後家や女中、子守ももちろん含む)。20~30戸の小字が多い。

この型のなかでも、女房持ちは他人の女房を、若衆は娘をというように分化しているムラと、特に区別をしない文字通りの総当りであったムラとがあるようです。ただしさすがに、他人の女房に夜這いするのは、主人が留守のときに限られるそうです。

「若衆型」
若衆仲間にのみ夜這いの権限が公認され、対象は同世代の娘仲間(+後家)に限られる型。ムラの戸数は相対的に多く、若衆と娘の員数が均衡していることが多い。

この型のなかでも、基本的に全ての若衆と寝るやりかたと、ある程度の選別ができるムラとがあったようです。また1年ごとにくじ引きで相手を決める方式を採用する例もあります。
総当り型に比べ様式化されたかたちと言えると思います。
この場合、嫁をもらうと基本的には、夜這いは卒業ということになります。

「総当り型」となるか「若衆型」となるかは、ムラの規模にもよりますが、そのムラの置かれた現実の経済状況による面が大きいようです。

いずれにしても表向きは(一応)一夫一婦制ですが、実態的にはその制度は解体され、代わりに皆が性的満足を得られるシステムで補完されていた、と見ることができるのではないかと思います。そしてそのようなシステム=「夜這い」は村落共同体を維持するために必要不可欠であったがために、全国で普遍的に行われるようになったのだろうと思います。

ムラの規模・構成要素ごと、実に様々な規範が存在していたようですが、その中でもいくつかの共通項が見出せます。

■夜這い婚の特徴
・抑圧なし、空き家なし
・全員参加が基本
・みんなが 充足できる事 を意識した規範

自我・私権意識を刺激する事無く、常に男女共に充足できる仕組みを、各ムラごとに模索し、規範化していったのが夜這いの風習。
当時の情景を思い浮かべてみても、とても楽しそうに男女が和合していた姿 がイメージされます。

現代とはあまりにも異なる風習ではありますが、現行制度と比べても遥かに長い歴史があり、その事自体が実際にみんなが充足していた事実の裏付けとなるのではないかと想われます。

ほんの200年足らずで先行きを見失いつつある現行制度とはえらい違いですね。

しかし、そのような充足規範が明治以降、じわじわと解体されていってしまったのです。

それは何故か?

次週に続きます

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