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『いい女って、何?いい男って、何?』~闘争存在たる男原理の世界(外圧⇒闘争⇒集団の世界)

:tikara: いい男、いい女の議論が進んでますが、今回は前回に続き、「いい男って何?」を追求していきたいと思います。前回の予告にあるように、今回は、るいネットでお馴染みの実現論(社会の諸現象がどのような必然構造で成立しているのかを、文明・文化という視点だけでなく生物史から人々の意識まで差し迫って追求し、体系化した認識のことです)をもとに考えてみたいと思います。

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 前回、span style=”color:#009933;”>男とは『闘争存在』であり、闘争圧力(対自然圧力や対同類圧力)に答えを出せる男がいい男!そして現在は、国家、市場、企業、学校、家庭等のあらゆる既存の集団が混迷している状態であり(市場に至っては今や崩壊の危機に瀕している)、この危機に対し、『構造認識』によって、社会や人の意識を構造化し、混迷する現代に可能性のある『答え』を出して『共認闘争』に勝っていくことが出来る男。これがいい男の姿だと導き出しました。

 これを、今回は、実現論を元に、歴史的事実を押さえることで普遍的ないい男を追求していきます。では実現論で参考になる部分を引用します。

実現論 [1]
 人類の命綱たる共認は、解脱共認と闘争共認で構成されている。女原理の男女解脱共認と男原理の闘争・集団共認でバランスを取っていると言っても良い。確かに、不全課題に対応する解脱共認(中でも雌雄解脱共認)は共認機能の最基底に位置しているが、その上部には個体や集団を超えた超越課題に対応する闘争共認の世界が存在する。そして、自然や外敵や他国との闘争圧力が強くなればなるほど、それら超越課題に対応すべく、集団統合力が強まってゆく。この外圧→闘争→集団の世界は、基本的に闘争存在たる男原理の世界である。

 ここで注目すべきは、以下の2点だと思われます。

①不全課題に対応する解脱共認(中でも雌雄解脱共認)は共認機能の最基底に位置している。
②それを基底にしてその上部には個体や集団を超えた超越課題に対応する闘争共認の世界が存在する。そして、自然や外敵や他国との闘争圧力が強くなればなるほど、それら超越課題に対応すべく、集団統合力が強まってゆく。
★この外圧→闘争→集団の世界は、基本的に闘争存在たる男原理の世界である。

Q;個人や集団を超えた超越課題って?・・・実現論を続けます。

実現論 [1]
 そして、農業生産の時代(ほぼ近代初期)までは、自然や他藩との闘争圧力がまだまだ強く働いており、それらの課題に対応する村落や藩などの集団の統合力もまだまだ強かった。つまり、女主導の男女解脱共認によってどれだけ強く性権や占有権に収束しようとも、決して捨象できない、男女解脱共認を超えた外圧と超越課題が存在していた。従って、いかに私権第一とは言え、何よりもまず国や藩や村落の集団課題や集団規範に正面から対応しなければ、私権を確保することも維持することも出来なかった。言い換えれば、己の私権を超えて、考えなければならない外圧や超越課題や集団規範が存在していた。

 人類誕生からの歴史を見ても、始原(極限)時代、採取時代、農業生産時代、武力支配時代、どれをとっても、外圧(中身はそれぞれに変化していったが)に対し、集団をどう統合する?社会をどう統合する?という超越課題は存在しました。
 このように、人類は、男原理(闘争課題)と女原理(充足課題)とを役割分担しながら外圧に適応してきたといえます。 :tikara:

Q:一方で、リーマンショックに端を発する世界市場崩壊のみならず、国家、市場、企業、学校、家庭等のあらゆる既存の集団が混迷している状態は何故引き起こされたのか?・・・実現論を続けます。

実現論 [2]
 だが、反集団の性的自我を原動力とする性市場→商品市場が社会の隅々までをも覆い尽くし、全ての集団が解体されて終った結果、人々は文字通り私権さえ確保すれば生存が保障される様になり、己の私権に関わること以外は、己の属する集団のことも社会のことも何も考えなくなって終った。つまり、性権力によって人類は、己の私権にしか反応しない(それ以外のことには全く反応しない)様に完全に囲い込まれて終ったのである。それにしても、社会のことなど何も考えない様にしておいて、その上で投票させる「民主主義」とは、何なのだろうか。ここにも、西洋式の民主主義の欺瞞性が又一つ、如実に現れている。

 村落共同体や集団規範の解体は、外圧・闘争・集団という男原理の全面崩壊でもあった。その結果、存在基盤を失った男たちはますます女に対する迎合を強め、それに伴って社会共認はますます女原理一色に染められてゆく。しかも、女は性的自我に立脚しており、そうである限り女が集団や社会に立脚することなどあり得ない。女たちが「社会」や「権利」を口にする時、常にそれは己の自我・私権を貫徹する為の欺瞞であり、全ては自己を正当化し人々を騙す為の架空観念であるに過ぎない。当然、女の思い込みと要求(性的自我や、性闘争=性市場や、豊かさ=市場拡大)を正当化する為に作られた近代思想も、全てが人々を騙しペテンに嵌める為の欺瞞観念であり、全てが事実に反する嘘である。実際、その欺瞞の仮面を剥がせば、「自由」も「個人」も「権利」も、全てその正体は自我・私権を貫徹する為の思い込みであり、思い込みであるが故に、これほど無根拠で、排他的で、暴力的な観念は他になく、これほど柔軟性のない(都合の悪いことは事実さえ受け入れない)救い様のない固定観念は他にない。

 日本においては、明治以降、特に戦後の西洋思想が強制輸入され、個人や自由や平等という自己正当化観念が、


①集団(規範)の崩壊(村落共同体の崩壊から核家族化へ)
②超越課題の喪失(自分の私権だけを追求し、社会の課題に対しては傍観者的立場)

を引き起こし、今の社会の混迷を引き起こしたのだと考えられます。 :nihi:

 しかし、今や、自分の私益だけを追求することは受け入れられない段階に来ています。国家レベルでは、鳩山の「友愛」や「環境」、オバマの「核廃絶」など、みんなの役に立つ大義名分でないと世界に受け入れられません。それは、男女共、潜在的には、社会の閉塞や秩序崩壊に対する不安や焦りを感じ取り、何とかせねばという、人々の期待に気づき始めたのだと思います。まさに、個人や集団を超えた超越課題をが現れて来ているのだと思います。

(参考投稿;るいネットより引用)
『何故闘うか?あるいは闘えないか?』 [3]寧ろ闘争せざるを得ない外圧→適応不全があるから闘争するのだと思います。極限状態であれば闘争しなければ死ぬ。それを突破するには闘争するしかないのだと思います。

 そして、それに対する可能性基盤は、先ほど実現論に書かれていた、男女の役割(原理)をベースとした、期待応望の関係が、集団の再生、超越課題への取り組みを可能にするのだと思います。そして、その男女の役割こそが、今後のいい男、いい女の規範(目標)になっていくのだと思います。

(参考投稿;るいネットより引用)
『充足基調と闘争基調』 [4]
☆充足の実現基調、闘争の実現基調、両者相まって実現基調を形成している。
・現代の男女にとって重要なのは、実現の可能性が高い充足の場を作り、充足基調をまずは形成すること。
・この場合の充足とは、共認充足。だから、充足の場を作るとは、共認原理による場を作り広げていくこと。
・共認原理による場とは、(私有権力ではなく)事実の共認によって統合される場。
・つまり、特に男に求められるのは、事実の発掘と事実の体系化(→認識構築)、それにより共認原理による場を(少しずつでも)実現すること。

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