- 感謝の心を育むには - http://web.kansya.jp.net/blog -

性的自我だけが暴走した時代、そしてセックスレスへ

%25E9%2587%2591%25E9%25AD%259A%25E3%2581%2599%25E3%2581%258F%25E3%2581%2584.jpg

男と女の引力が衰弱してきた [1]
象徴的な現象として、1991年に提起、1992年流行語にもなった『セックスレス』があります。(参照: リンク  [2] )

当時、マスコミで騒がれはしたものの、カップルに対する街角インタービューでは、「セックスレスではあるが特に問題にはならない。他に楽しめる事がたくさんあるし・・・」etc当の本人たちは、全然問題視していない。バブルは崩壊したものの余韻はまだ残っており趣味や遊びに興じている時期だったのかも知れません。完全にその余韻もなくなった1997年の山一證券の倒産に代表される金融破たんの頃には、セックスレスが少子化問題とセットで社会問題化しだしました。
男は、私権(金、身分)による力の基盤を失い、(あんなに渇望していた)セックスどころではなくなり、性の充足が得られない女性の深刻なメンタル面が浮上してきました。
この『セックスレス』の原因構造を端的に述べている記事を元に掘り下げてみたいと思います。

続きを読む前にポチ・ポチ応援お願いします。

セックスレスの原因構造~大転換期1970年頃になにが起こったか?~ [3]

1970年頃に大転換がおこりました。70年ごろ貧乏人がいなくなった。
要するに飢えの圧力=生存圧力が働かなくなった と言う事です。生存圧力が働かなくなると、性闘争本能も次第に作動しなくなってしまいます
その上さらに私権闘争が衰弱して私権の圧力も低下してしまうので私権獲得の活力さえも出なくなってしまいます

そうして飢えの圧力がなくなったことにより、男が遊びに収束してしまったので女の性的商品価値が沸騰し、男女同権論も相まって女の力が強くなり過ぎてしまいました。
それに対して衰弱してしまった私権(活力)の力ではもはや女に対する独占欲や支配欲(自我)を充たす事さえ出来なくなってしまいました

要するに、生存圧力が働かなくなってしまった事により、これまで男の性欲を生み出してきた性闘争本能も、私権闘争の活力、独占欲(自我)も全て作動しなくなってしまって、さっぱり性欲が湧かないというニッチもサッチもいかなくなってしまったのです。

これがセックスレスの原因構造だと思います。

2段階若しくは、2重構造になっていることがポイントです。

生存圧力が弱まった1970年以降には、セックスレスになることは、必然だったのです。
生物学的に、哺乳類は生存圧力が高ければメスを獲得しようとする性闘争本能が激化します。緩まれば働かなくなります。

一方で、生存圧力が高くても、可能性が無ければ、性闘争本能は封鎖されてしまいます。
例えば、集団を維持する為に、ボス集中婚といった婚姻形態をとった場合や、私権(お金、身分に基づく)原理が働いている時代で、私権が獲得できない場合etc。

では、1970年以降は、どういった時代であったかと言うと、
性闘争本能は衰弱へと向かっている(いつでもセックスレス化する状態)。一方で、万民に私権獲得の可能性が開かれた(1987年の調査には、75%の国民が中流と答えている。 参照 リンク [4])。

1970年以降は、性的自我(独占欲や支配欲)だけが、暴走した時代と言えよう。
典型的なのが、バブル期。剥き出しの性。それに群がる男たち。
(どんな手を使おうが)お金さえあれば、女(メス)が手に入る生物学上異常な時期
それほど、性を剥き出しにしないと男が振り向かない時代でもあった。

市場の崩壊と共に、性(市場)も衰弱。そしてセックスレスへと。

あまりにも、“セックス”という“体”のみがクローズUPされ、“心”と“頭”の部分が置き去りにされてきた。
性は、“体”という本能だけでなく、“心”という共認充足と“頭”という観念の三身一体(三層構造)による充足によって充たされる。どれが欠けても充足度は低減する。

『本源の性』
究極の“親和充足・共認充足”がセックスにあるとしても、(極限時代の人類は性の充足を活力源にして生き延びてきたこともあり)何となく感覚的には解かるような気はするが、誰も体現したことがない。
心と体が充たされるだけでなく、集団規範に基づいている為に周り(みんな・集団)も充たされる。そんなセックスだったのではないかと予想される。
現代の個人間のみの充足。まだ充足できればましな方で“虚しさ”を覚えたり、後ろめたさ を感じたりする“性”とは、真逆にある。

『新しい萌芽』
私権の獲得に何の魅力も活力も感じなくなってきたように、性的自我も同じことが言える。
私権原理から共認原理へ転換したことによって、上記の“本源の性”を体現(復活)できる時代に移行しつつある(過渡期) 。

男は、(私権による)力の基盤を失った為に、いったん“性”を棚上げにし、それに伴って女は“空き家”状態になっている。と表層的には見える。
棚上げにしているのは、“性的自我”の“性”であって、深層では、“本源の性”へ向かっている(のではないか)。
男は、「社会(集団)をどうする?」という意識に向かっている。それは、女たちの安心基盤(充足基盤)を創っていくのと同じである。また“女たち”は、社会の中で闘っている“男たち”の姿をみて、「支えてあげたい。」という意識に転換しだしている。

“新しい萌芽”をはじめ可能性は拡がっている。
蓋をしている“頭”の部分である“旧い観念”や“制度”、そして“規範”の塗り替え=新しい男女関係の規範創りにかかっている。

[5] [6] [7]