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経済破局間近!・・・家庭という枠組を超えた問題をどう突破する!?-1~@人類の本性は共同性~

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前回 [2]:プロローグでは経済破局を受けて、女原理から男原理への転換に向かい、それが悪い方向、つまり「否定と破壊」の方向に転じれば日本の社会も危ういという状況認識を提起しました。

同じく前回、集団の自我(私権)こそ、自我(私権)の出発点ではないのか。と、“自我は集団発”という新認識も提起され、それを裏付けるかのように、1970年を契機に現代まで、国家私権▼⇒企業私権▼⇒家族私権▼と、大集団から小集団へ集団レベルでの私権意識が衰弱しているという仮説も提起されました。それが本当ならば、自我(私権)意識は衰弱過程に入っており、そんなに心配するものでもないとも言えなくはないのでは?という疑問も登場します。

どちらの可能性が高いのかを判断する上でも、“自我は集団発”という歴史的な検証が不可欠です。
そこで今回から2~3回に分けて、自我の発生から人類の自我の登場までを扱っていきたいと思います。

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■自我って、なに?
近代心理学で言われる自我と、るいネットの認識の自我とは大きく異なります。

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じが 【自我】 〔英 self; (ラテン) ego〕
(1)〔哲〕 自分。自己。意識や行為をつかさどる主体としての私。対象(非我)・他者(他我)から区別されるが、他我もまた一個の自我である。人格や作用の中枢として、認識の根拠・道徳的行為や良心の座となる。⇔非我

(2)〔心〕
(ア)自分自身に関する主体としての意識の総体。自我意識。
(イ)精神分析で、イド・超自我とともに人格を構成する心的領域。イドと外界の現実や超自我との間で現実原則に従って調整をはかるもの。エゴ。
【 大辞林第二版 】

(中略)
意識は固有不変の統合された何かではなく、時と場所によって変わるものであり、もし自分で自律的、統合的な「自我」というものを感じているのだとしても、それは妄想であるというのがラカンによる自我である。

『自我とは?(フロイトとラカン)』 [3]より

一方、るいネットの認識によると

みんなの共認によって(自分には)与えられなかった評価を、他者否定と自己正当化によって、己に都合の良い幻想に収束することで自己充足を得る機能。これは共認機能の派生物であるが、みんなの共認を破壊する共認の敵対物でもあり、謂わば、共認機能が生み出した鬼っ子ともいえる。

『新概念定義集』 [4]より

このブログで使われる「自我」は、基本的にはこのるいネットの認識のことを言います。

■自我の発生
実現論 1.前史 ニ.サル時代の同類闘争と共認機能 [5]によれば、自我の発生は古く、約3千万年前の真猿の段階に端を発する。集団統合の要としての共認機能とほぼ同時に形成された。

■真猿時代の自我は、集団発か個体発か
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サル集団も、人類社会も、通常は親和共認や課題共認・役割共認・規範共認etcによって統合されています。しかし、それらの共認圧力にも拘らず、自我や性闘争が発現した場合、それらは力によってしか制圧できません。この様な否も応もない力による制圧の構造を、力の論理と表現しています。その場合、サルも人類も、力の序列を追共認して序列規範を形成=共認することによって、集団の統合を維持しています。

『序列闘争は、共認されている』 [7]より 

から推察すると、「力の序列を「追共認」して序列規範を形成=共認する」ということからも分かるように、個体に対し、否も応もない力による制圧という、共認とは相反する強制圧力がはたらくことから、真猿時代の自我意識は個体発ということがいえると思います。

■始原人類の自我
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人類はご存知の通り、500万年余り前(一説には700万年前)に登場しました。その時、人類にも自我が発生したのでしょうか?
真猿から進化(or退化)した人類はどのように生き延びてきたかを見てみます。

①逆境下で共認機能に全面収束

肢の指の先祖返りによって、樹の上に棲めるというサル時代の最大の武器を失った人類は、想像を絶する逆境に陥る事になる。
鋭い牙も、走力も他の動物に比べて肉体機能が遥かに劣る人類は、地上では狸のような小動物にも負ける存在であり、従って日々の食料も確保できず恒常的な飢えに苛まれ、常に肉食動物の襲来に脅える絶望的な生存状況に追い詰められた。
この様に本能では到底生きていけない(適応できない)状況下で、人類はサル時代に獲得した共認機能(相手と同化することによって充足を得る機能)に全面収束してゆく事となる。つまり恒常的な飢えの苦痛と怯えを少しでも解消すべく、互いに身を寄せ合い安心充足を得る(親和充足)。そしてその充足(と充足を与えてくれる仲間に対する全面肯定視)を基盤に、仲間同士額を寄せ合い、みんなの表情や身振り手振り(評価)を羅針盤として、日々「どうする」の行動方針(=課題と役割)を模索し闘争共認を確立していったのだ。

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②共認充足こそ最大のエネルギー源であり、人間の生きる目的
この日々生きる事さえ絶望的な状況の中で得られる共認充足は、人類にとっての唯一の生きる希望であり、唯一最大のエネルギー源でもあった(つまり生きる目的そのものであった)。事実、共認機能に全面収束した人類は、その後必然的に共認充足度を上げるベクトルで共認機能をより進化させていくことになる。
例えば人間に固有の「喜怒哀楽」などの感情やその表現手段の多様性はその一例である。笑顔は相手への肯定視をより発展させた表情であるし、涙は悲しみや喜びの共有を通じて集団の成員の一体感を更に高めるべく生み出されたものである。この様に共認充足度を高めるために、相手への伝達手段や受信能力を発達させていく事で、人類は知能を進化させてきたのだ。つまり共認機能こそが人類の心の中核であり進化の原動力でもあったのだ。

『人類の本性は共同性にある①』 [9]より

③自我を全面封鎖した共同体の中で人類の本性=共同性は育まれてきた

この様な状況下では自分勝手な振る舞いや仲間を否定する行為(自己中=自我)は、人類の命綱ともいえる共認充足を妨げ、集団の結束を破壊し、集団の存続を危うくする(ひいては個体の生存も危うくする)ため、徹底的に抑制・封印されてきた。つまり人類の本性は共認充足を中核とする共同性にあるともいえる。そのように自我(や私権)を全面封鎖した共同体の中で500万年に亙ってこの人類の本性は形成されてきたのだ。

『人類の本性は共同性にある②』 [10]より

このように、人類史上の99%以上は、想像を絶する過酷な自然外圧の中、人類は共認機能に全面収束し、徹底的に自我を抑制・封印してきたのです。この認識は今後の自我のあり様を見ていく上では決定的に重要で、「人間の自我(私権)は本性」という近代の誤った認識はここで塗り替える必要があります。

次ぎの段階では、人類に於ける自我の発生経緯を押えていきたいと思います。 :tikara:

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