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2009年10月07日

経済破局間近!・・・家庭という枠組を超えた問題をどう突破する!?-1~@人類の本性は共同性~

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前回:プロローグでは経済破局を受けて、女原理から男原理への転換に向かい、それが悪い方向、つまり「否定と破壊」の方向に転じれば日本の社会も危ういという状況認識を提起しました。

同じく前回、集団の自我(私権)こそ、自我(私権)の出発点ではないのか。と、“自我は集団発”という新認識も提起され、それを裏付けるかのように、1970年を契機に現代まで、国家私権▼⇒企業私権▼⇒家族私権▼と、大集団から小集団へ集団レベルでの私権意識が衰弱しているという仮説も提起されました。それが本当ならば、自我(私権)意識は衰弱過程に入っており、そんなに心配するものでもないとも言えなくはないのでは?という疑問も登場します。

どちらの可能性が高いのかを判断する上でも、“自我は集団発”という歴史的な検証が不可欠です。
そこで今回から2~3回に分けて、自我の発生から人類の自我の登場までを扱っていきたいと思います。

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■自我って、なに?
近代心理学で言われる自我と、るいネットの認識の自我とは大きく異なります。

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じが 【自我】 〔英 self; (ラテン) ego〕
(1)〔哲〕 自分。自己。意識や行為をつかさどる主体としての私。対象(非我)・他者(他我)から区別されるが、他我もまた一個の自我である。人格や作用の中枢として、認識の根拠・道徳的行為や良心の座となる。⇔非我

(2)〔心〕
(ア)自分自身に関する主体としての意識の総体。自我意識。
(イ)精神分析で、イド・超自我とともに人格を構成する心的領域。イドと外界の現実や超自我との間で現実原則に従って調整をはかるもの。エゴ。
【 大辞林第二版 】

(中略)
意識は固有不変の統合された何かではなく、時と場所によって変わるものであり、もし自分で自律的、統合的な「自我」というものを感じているのだとしても、それは妄想であるというのがラカンによる自我である。

『自我とは?(フロイトとラカン)』より

一方、るいネットの認識によると

みんなの共認によって(自分には)与えられなかった評価を、他者否定と自己正当化によって、己に都合の良い幻想に収束することで自己充足を得る機能。これは共認機能の派生物であるが、みんなの共認を破壊する共認の敵対物でもあり、謂わば、共認機能が生み出した鬼っ子ともいえる。

『新概念定義集』より

このブログで使われる「自我」は、基本的にはこのるいネットの認識のことを言います。

■自我の発生
実現論 1.前史 ニ.サル時代の同類闘争と共認機能によれば、自我の発生は古く、約3千万年前の真猿の段階に端を発する。集団統合の要としての共認機能とほぼ同時に形成された。

■真猿時代の自我は、集団発か個体発か
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サル集団も、人類社会も、通常は親和共認や課題共認・役割共認・規範共認etcによって統合されています。しかし、それらの共認圧力にも拘らず、自我や性闘争が発現した場合、それらは力によってしか制圧できません。この様な否も応もない力による制圧の構造を、力の論理と表現しています。その場合、サルも人類も、力の序列を追共認して序列規範を形成=共認することによって、集団の統合を維持しています。

『序列闘争は、共認されている』より 

から推察すると、「力の序列を「追共認」して序列規範を形成=共認する」ということからも分かるように、個体に対し、否も応もない力による制圧という、共認とは相反する強制圧力がはたらくことから、真猿時代の自我意識は個体発ということがいえると思います。

■始原人類の自我
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人類はご存知の通り、500万年余り前(一説には700万年前)に登場しました。その時、人類にも自我が発生したのでしょうか?
真猿から進化(or退化)した人類はどのように生き延びてきたかを見てみます。

①逆境下で共認機能に全面収束

肢の指の先祖返りによって、樹の上に棲めるというサル時代の最大の武器を失った人類は、想像を絶する逆境に陥る事になる。
鋭い牙も、走力も他の動物に比べて肉体機能が遥かに劣る人類は、地上では狸のような小動物にも負ける存在であり、従って日々の食料も確保できず恒常的な飢えに苛まれ、常に肉食動物の襲来に脅える絶望的な生存状況に追い詰められた。
この様に本能では到底生きていけない(適応できない)状況下で、人類はサル時代に獲得した共認機能(相手と同化することによって充足を得る機能)に全面収束してゆく事となる。つまり恒常的な飢えの苦痛と怯えを少しでも解消すべく、互いに身を寄せ合い安心充足を得る(親和充足)。そしてその充足(と充足を与えてくれる仲間に対する全面肯定視)を基盤に、仲間同士額を寄せ合い、みんなの表情や身振り手振り(評価)を羅針盤として、日々「どうする」の行動方針(=課題と役割)を模索し闘争共認を確立していったのだ。

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②共認充足こそ最大のエネルギー源であり、人間の生きる目的
この日々生きる事さえ絶望的な状況の中で得られる共認充足は、人類にとっての唯一の生きる希望であり、唯一最大のエネルギー源でもあった(つまり生きる目的そのものであった)。事実、共認機能に全面収束した人類は、その後必然的に共認充足度を上げるベクトルで共認機能をより進化させていくことになる。
例えば人間に固有の「喜怒哀楽」などの感情やその表現手段の多様性はその一例である。笑顔は相手への肯定視をより発展させた表情であるし、涙は悲しみや喜びの共有を通じて集団の成員の一体感を更に高めるべく生み出されたものである。この様に共認充足度を高めるために、相手への伝達手段や受信能力を発達させていく事で、人類は知能を進化させてきたのだ。つまり共認機能こそが人類の心の中核であり進化の原動力でもあったのだ。

『人類の本性は共同性にある①』より

③自我を全面封鎖した共同体の中で人類の本性=共同性は育まれてきた

この様な状況下では自分勝手な振る舞いや仲間を否定する行為(自己中=自我)は、人類の命綱ともいえる共認充足を妨げ、集団の結束を破壊し、集団の存続を危うくする(ひいては個体の生存も危うくする)ため、徹底的に抑制・封印されてきた。つまり人類の本性は共認充足を中核とする共同性にあるともいえる。そのように自我(や私権)を全面封鎖した共同体の中で500万年に亙ってこの人類の本性は形成されてきたのだ。

『人類の本性は共同性にある②』より

このように、人類史上の99%以上は、想像を絶する過酷な自然外圧の中、人類は共認機能に全面収束し、徹底的に自我を抑制・封印してきたのです。この認識は今後の自我のあり様を見ていく上では決定的に重要で、「人間の自我(私権)は本性」という近代の誤った認識はここで塗り替える必要があります。

次ぎの段階では、人類に於ける自我の発生経緯を押えていきたいと思います。 :tikara:

投稿者 sashow : 2009年10月07日 List   

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コメント

>近代心理学で言われる自我と、るいネットの認識の自我
以前露店で「自我ってなに?」について、店主さんと話をしたことを思い出しました♪
あのとき私は、自我=近代心理学でした(^^;)

前回の劇場で『自我は集団発』と新たに提起されて、「実際はどうなのか?」「そうであるなら、新認識をもって過去の出来事(歴史)をどのように塗り変えられるのか?」がとても気になっています。
今後の追求、楽しみにしています♪

投稿者 ふぇりちゃん : 2009年10月8日 15:07

ブログ見させていただきました!

なぜ自我が集団発か個体発かということが重要なのか、
すごくわかりやすくまとめていただけていると感じました☆

少しわからなかったのは、「否定と破壊」と自我の関係性です。
「否定と破壊」の話から自我の話に移る時に、少し困惑しました。
「否定と破壊」が自我発であるということを、先週のブログを見直して理解したのですが・・・

ですので、今回のブログにも「否定と破壊」の前に「自我発」を付けて、
自我発の「否定と破壊」、とすると「否定と破壊」と「自我」の関係がわかる
ように思います。

以上がブログを見て感じたことです。

投稿者 かがのん : 2009年10月8日 21:15

集団自我って、あまり聞きなれない言葉ですよね。でも、これまでの私権社会では、実は集団自我にどっぷり浸かっていたのです。だからこそ、気が付かなかったのではないでしょうか。

例えば
○企業(の自我)
私権時代では、自集団の利益を上げることが第一目的。要は、儲かるか否かが、企業活動の羅針盤だった。社員・従業員は、そのために働いてきた。~これは、わかりやすいですね。

○国家(の自我)
【国家が加担して拡大してきた近代市場は社会の‘自己中化’を急速に推し進める】(リンク)に詳しく展開されています。要は、国家ぐるみの市場拡大が戦争を生む。

その結びに、
>近世以降は市場拡大の原資を手っ取り早く手に入れることのできる戦争が世界各地で急増する事態になりました。当然、市場拡大への期待と要求は日増しに高まり、人々の関心も私益追求一色になっていきます。

 つまり、近現代の社会とは‘自己中化’が末端まで浸透し、集団課題や統合課題が破滅的に捨象されてきた時代と言い換えることができます。<

この象徴的な国が、「アメリカ」ですよね。
その自己中国家の原点に、【観念による殺しの正当化が、戦争の根本に存在する】(リンク)

そして、社会の中での最小集団単位である家庭はと言えば…
家庭は聖域:「聖域と化し自己中な親や子を生み出す温床となってしまった家庭~当ブログプロフィールより」

こうやって見てみると、私権時代は家庭から国家に至るまで、「集団自我」にまみれた時代だったと言えるのではないでしょうか。

投稿者 hajime : 2009年10月8日 22:25

『集団の自我(私権)こそ、自我(私権)の出発点』『“自我は集団発”』

この認識は今後の可能性を探る上でとても重要だと思います。『人類史上の99%以上は、想像を絶する過酷な自然外圧の中、人類は共認機能に全面収束し、徹底的に自我を抑制・封印してきた』人類にとって、自我すら集団の共認内容によることを示します。

サルは集団の統合を維持するために、力の序列を追共認して序列規範を形成=共認することが必要だった。しかし、人類はその歴史の99%以上もの長い間、集団の共認によって自我を制御してきたのです。

『1970年を契機に現代まで、国家私権▼⇒企業私権▼⇒家族私権▼と、大集団から小集団へ集団レベルでの私権意識が衰弱している』現在、今後の可能性が開けた時代とも言えます。ただし、自我は衰弱していくとしてもそのままでは残り続けます。これまでの自我・私権に変わる、新しい充足可能性を示すことが、なによりも必要だと実感します。

“自我は集団発”という新認識も、集団的自我の発生過程などまだまだ未開な課題は沢山ありますが、一つ一つ事実を積み上げ、論理性合成する、誰もがスッキリする認識をみんなと一緒に作っていきたいですね。

投稿者 さいこう : 2009年10月10日 18:40

ふぇりちゃんさん、期待のコメントありがとうございます!!

>前回の劇場で『自我は集団発』と新たに提起されて、「実際はどうなのか?」「そうであるなら、新認識をもって過去の出来事(歴史)をどのように塗り変えられるのか?」がとても気になっています。
今後の追求、楽しみにしています♪

次回から、集団発の自我の起源をたどっていきます。最終的には、今後の可能性に結び付けていきますので、注目していてください!

不明点や疑問点などでてきたら、どしどしコメントお願いします。追求の助けになります。

よろしくお願いします!!

投稿者 sashow : 2009年10月10日 22:12

かがのんさん、コメントありがとうございます。

なかなか本質をついた感想で、助かります。
確かに、自我発の「否定と破壊」とした方が分かり易いので、改めて、そう定義します。

また、よろしくお願いします。

投稿者 sashow : 2009年10月10日 22:17

るいネットファンのhajimeさん、事例紹介ありがとうございます。

集団自我は、実は身近にあることが、分かり助かりました。
アメリカもそうだったんですね。「自由と正義のための(イラク)戦争」など言っていることが、その表れですね。

投稿者 sashow : 2009年10月10日 22:22

さいこうさん、コメントありがとうございます。

過去の歴史の検証は、論理整合性で捉えるというという発想が重要ですね。

そのために、いろいろな状況を想定し、何が最も可能性が高いか?を追求していくことって、結構楽しいものです。

当時生きていた人達の思いに同化する必要があり、そういう意味でサル~人間の意識構造をも把握する必要も生じます。

次回以降の展開については、そういったいろいろ押えておかなければならない疑問も登場し、手探りで進めている状態ですが、その過程も含めて、紹介していくつもりです。

応援よろしくお願いします。

投稿者 sashow : 2009年10月10日 23:22

興味深く読ませていただきました☆(●^o^●)とっても勉強になりました♪
>>この様に本能では到底生きていけない(適応できない)状況下で、人類はサル時代に獲得した共認機能(相手と同化することによって充足を得る機能)に全面収束してゆく事となる。つまり恒常的な飢えの苦痛と怯えを少しでも解消すべく、互いに身を寄せ合い安心充足を得る(親和充足)。そしてその充足(と充足を与えてくれる仲間に対する全面肯定視)を基盤に、仲間同士額を寄せ合い、みんなの表情や身振り手振り(評価)を羅針盤として、日々「どうする」の行動方針(=課題と役割)を模策し闘争共認を確立していったのだ。<<

>>この様な状況下では自分勝手な振る舞いや仲間を否定する行為(自己中=自我)は、人類の命綱ともいえる共認充足を妨げ、集団の結束を破壊し、集団の存続を危うくする(ひいては個体の生存も危うくする)ため、徹底的に抑制・封印されてきた。<<

なるほど~~~~♪♪♪
このように生き残る手段として自我を徹底封鎖してきた人類☆
自我封鎖して進化してきたのに、集団を破壊する“固体の自我”がいきなり芽生えてくるというのは確かに考えにくいですね☆^^

集団での共認充足に可能性をかけて生き残ってきたのだから、人類にとっては集団がすごく大切☆集団の利益を追求するための“集団発の自我”であれば、自我が発現してくるのも納得できます♪

こうしてみていくと(゜o゜)現代の個人が持つ自我意識というのはまさに、
>>国家私権▼⇒企業私権▼⇒家族私権▼と、大集団から小集団へ集団レベルでの私権意識が衰弱している』<< 結果が表れてきたもののような感じがします☆
最終的に個人の私権意識(自我)もなくせることができるんでしょうか・・・(゜ω゜)☆
とっても気になるところです~♪♪\(^o^)/

投稿者 みゆこ : 2009年10月11日 12:12

るいネットの自我の概念は心理学のそれと異なっていますが、るいネット定義、【共認】の副産物としての【自我】のほうが事実である=現実をきることができると感じます。

例えば、心理学の自我の概念を基に考えて(自我の確立、自己実現、自分探し、、、)いる限り、心の病や心のすっきりしない状態を治すことができません。対して【共認・自我】の概念でとらえれば、心の非充足に対しては共認充足が必要とずばり解答を与えることができます。このへんを分かりやすく解説している投稿があります。自我心理学から共認心理学へ

投稿者 fwz2 : 2009年10月12日 21:20

>人類の本性は共同性<

これって、改めてすごい認識だと思いました☆

自我ありき・・で考えると、個性を持たなきゃって思ったり、みんなと同じじゃダメだって思ったり・・・

自我を原点に考えると見えてこないことが、「人類の本性は共同性」を幹に考えてみると、いろんな問題がスッキリと見えてくるような気がします♪

そもそも、自我も集団発=つまり集団のみんなと一緒だったし、真猿時代の自我もみんなの評価を認められない=みんなと違うという不全から出てきているもの。

そして、違うことを言おうとするんじゃなくて、みんなで考えや想いをすり合わせていくことこそが、これからの社会を考える上でも、大切☆

これからのシリーズがますます楽しみです(○^^○)

投稿者 たてこ : 2009年10月12日 23:00

>人類の本性は共同性<

これって、改めてすごい認識だと思いました☆

確かに!!
そう考えると、
>>国家私権▼⇒企業私権▼⇒家族私権▼

の流れは必然だったのだと言えると思いました☆

投稿者 orenji : 2009年10月12日 23:16

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