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これを読めば時代がわかる!最新版~潮流6:’95年、私権原理の崩壊と目先の秩序収束

1994年6月30日村山内閣発足 [1]
※1994年6月30日(村山内閣発足)社会、自民、さきがけの三党連立内閣が発足。社会党からは47年ぶり。しかし、1995年の第17回参議院選挙で、空前の大敗北を喫した。(日本社会党 – Wikipedia [2]

衆院選挙の結果、民主党が政権を取りましたね。

一昔前までは、野党第一党といえば、社会党でした。
元は、革命路線を掲げ、自民党政権にことごとく反発し、制度の改革要求を声高にさけび、1980年ぐらいまでは政権奪取を目指して、1958年には最大160人の(衆議院)議員を擁していましたが、社民党と名を変えた現在、今回の選挙でも当選議員数は5人と、目を覆うばかりの凋落っぷりです。

社会党(社民党)の凋落が示すのは、大きな社会潮流の変化でした。

応援よろしくお願いします。

潮流6:’95年、私権原理の崩壊と目先の秩序収束 [3]

バブルは必ず崩壊する。案の定、’90年、日本のバブルは崩壊した(その後、’08年、米欧をはじめ世界バブルも崩壊する)。
そして、’95年、バブル崩壊の5年後、相次ぐ金融機関の破綻を目の当たりにして、私権の崩壊が意識(予感)され始める。
半顕在意識に生起したこの私権崩壊の認識(予感)は、私権追求の欠乏を一気に衰弱させ、急速に私権圧力を衰弱させていった。
 
山一破綻 [4]長銀破綻 [5]
※1997年(山一証券自主廃業、北海道拓殖銀行破綻)1998年(日本長期信用銀行一部国有化)

私権欠乏→私権圧力が衰弱したことによって、私権欠乏発の不満や怒りや要求も衰弱して無意味化してゆく。つまり、「否定」意識が空中分解してゆく。こうして、’95年以降、「否定と要求」の社会党は一気に凋落していった。
そして、「否定」が空中分解したことによって、’70年以来の充足志向→実現志向の潮流が次第にはっきりと顕在化してくる。
それだけではない。私権が衰弱したことによって、「否定」意識と同じく私権欠乏発の「自由(自由追求の欠乏)」も衰弱して無意味化し、空中分解してゆく。
それに伴って、明治以来、市場拡大の原動力となってきた性(自由な性=自我と私権に貫かれた性)の活力も一気に衰弱し、アッという間に女の性的商品価値が暴落すると同時に、男のセックスレスが蔓延してゆく。
 
1991-1994年ジュリアナ東京ブーム [6]
※1991-1994年、空前絶後のジュリアナ東京ブーム [7]は、名古屋・京都などの地方が東京より過激になり露出競争へ。ブームの終焉とともに、性は急激に衰弱していく。

95年以降、衰弱し続けてきた私権欠乏は、その後’03年、株式が二番底に向かうのを見て追求する活力も消え失せ、遂に私権欠乏そのものが空中分解してゆく。かくして、人々はもはや私権の追求に収束することができなくなり、永い間社会を統合してきた私権収束→私権統合という統合軸が崩壊してゆく。これは、1800年に亙って私権時代を貫いてきた私権原理の崩壊であった。
こうして、人々はどこにも収束できずに収束不全に陥ってゆく。
但し、肉体的な潜在意識は’70年以来、一貫して充足志向から共認収束し続けており、私権の衰弱につれて共認収束はどんどん強くなってきている。従って、収束不全と言っても、それは「否定」も「自由」も空中分解し、私権意識さえ無意味化したことによる顕在意識の収束不全に過ぎない。

(なお、上記の性の衰弱は、人類にとって極めて由々しき事態である。しかし、まやかしの近代思想に染められた知識人たちは、この問題からも目を背らし、ダンマリを決め込んでいる。今や、学者や評論家やマスコミ人たち(=プロと称する者たち)は、何の役にも立たないただの無駄飯食いに成り果てたと見るべきだろう。)

他方、バブル崩壊に伴う経済危機は、人々の間に危機感発の安定欠乏を生起させ、目先の安定志向を強めさせる(注:この危機発の安定志向は、’70年以来の充足発の安定志向とは別物である)。そして、この危機発の安定志向は、「自由」が空中分解したことも相まって、目先の秩序収束の潮流を生み出してゆく。タバコ、セクハラ、食品叩きと続く魔女狩り=マナーファシズムは、この秩序収束の潮流に乗った法曹官僚とマスコミの仕掛けである。
しかも、この目先収束は、秩序収束の段階に留まらず、更に目先の制度収束へと突き進んでゆく。
豊かさの実現以来の充足志向→実現志向の大潮流は、’95年、私権意識の衰弱が顕在化したことによって、一段と強くなっていったが、同時に、危機発の目先の秩序収束の潮流が生起したことによって、実現志向と秩序収束の合流点に目先の制度収束の潮流を生み出していった。既存の制度の枠組みの中での、授業や試験や資格への収束が、それである。
 
セクハラ問題について、大阪府議会の代表質問で批判を浴びた横山ノック氏 [8]
※1999年12月13日、横山ノック(大阪府知事)に、大阪地方裁判所はセクハラ行為を認定、女子大学生に対して1100万円(セクハラ訴訟としては過去最高額)の支払い命令(横山ノック – Wikipedia [8])/2000年12月、女性専用車両の試験的導入、翌年本格導入へ(女性専用車両 – Wikipedia [9]

中でも、子供や若者の試験制度への収束は、小学生の時から勉強漬けで「勉強しか出来ない」無能エリートを大量生産しただけではなく、学歴が生涯の身分をほぼ規定する学歴身分社会を作り出し、社会を少数の特権階級と多数の下層階級に分解してゆく。

 
新たな制度を声高に叫んで、凋落していった社会党の姿が示していたのは、否定発や自由発の要求や変革に可能性が無いことだったのですね。
 
人々の根っこの意識では私権制度の変革だけでは可能性が無いことがわかっているのに、安定や充足を求めようとすると、現状否定の私権制度の改革しか出てこない。既存の私権制度の枠内にいれば、とりあえず秩序は保たれる、安定するという意識が目先の制度収束になっています。この流れは、あくまで「とりあえず」にすぎないでしょう。
どうして良いか分からないという収束不全に対する答えは、私権が崩壊して、収束軸たりえなくなった今、新たな収束軸の可能性を示すことなのです。
しかし、私権制度の上では、その役目を担う人たちが、「勉強しか出来ない」無能エリート。
私権制度の維持のための勉強に終始し、新たな可能性の発想さえ期待できそうにありません。
私権制度恐るべし。
次回は、その中身を詳しく紹介します。
 

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