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集団規範の再生ー3 「日本的なるもの…企業内組合」

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※画像はこちらからお借りしました→(リンク [1]

いまや、労働組合はかなり下火になっているようですが、企業内組合は日本社会の特徴といってもよいものだったようです。
近代的な労働組合は第二次大戦後に公式に認められましたが、主流になったのは企業内組合

外国の学者によれば、日本的経営の特徴として、終身雇用、年功序列、企業内組合の3つが挙げられているように、かなり日本的なる存在と言えるようです。

今回は、その成立の背景にあった日本的なるものが何であったのか明らかにしてみたいと思います。

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日本社会で労働組合が正式に認められたのは第二次大戦後のことでした。
そのあたりの経緯から見てみたいと思います。少し長くなりますが、お付き合いください。

●企業内組合の略史ウィキペディア:「日本的経営」より [2]

…第二次世界大戦前までは企業内で養成した熟練工の定着率が悪く、職の移動は常態化していたことで、昭和初期頃より各企業は終身雇用、年功序列制度を設けて熟練工の定着化を行ったことで日本的経営の制度が普及するようになった。
終戦後、日本的経営は、GHQによる財閥解体、労働組合の結成の推奨による経済民主化政策と共に、日本の企業は企業別組合による労使一体による経営と高度成長による右上がりの経済成長で定着したが、経済成長が横ばいになると、終身雇用放棄論が声高に主張されたが、賃上げ抑制など労使協調で乗り越えた。 1980年代には日本の驚異的な経済成長の立役者として懐古的にもてはやされていた。

●終戦直後のGHQの政策リンクより [3]

GHQの「労働改革」の特徴は労働者の団結権、団体交渉権、団体行動権(これを労働3権という)を保障したことです。それは戦前の日本が絶対主義天皇制の下で労働組合を認めず、治安維持の名で弾圧し、そのことで低賃金を実現し、ドレイ労働を実現して、その結果日本は内需が小さいため空前の侵略国家になった経験を踏まえたものでした。
 GHQは「労働改革」で労働3権を認めることで強い労働組合を実現し、比較的高い賃金とすることで内需中心の経済の実現をめざしました。もちろんそれは「農業改革」で地主階級を一掃し、小土地所有によって農村を自給自足から資本主義の市場とし、「経済改革」によるシャウプ税制で富の再配分を実現し、公共事業で内需を主導したこととセットでおこなわれたのです。
 GHQは労働組合の力を強化することで日本軍国主義の復活を阻止する力を労働組合に期待したのです。こうしてGHQの戦後改革は理想的ともいえる資本主義社会を実現し、日本経済は復興を実現しました。
 日本経済は「所得倍増計画」や「列島改造計画」やその後の大公共事業で一層発展し、日本経済は商品輸出を急速に拡大しました。

●左翼サイドから見たGHQの政策リンクより [4]

…初期には、日本の軍国主義に対抗する勢力として労働組合などの育成政策をとったアメリカ占領軍は、急速な労働運動の高揚におどろき、また、中国全土における革命勢力の勝利が 決定的となるなかで、弾圧政策に転じたのである。
 占領軍による弾圧と首切りなど占領政策の反動化とともに、1948年7月にはマッカーサー書簡による政令201号で公務員労働者のスト権が全面的に禁止され、同年末の国家公務員法改悪、公共企業体等労働関係法=公労法の制定、つづく地方公務員法(1950年)、地公労法(1952年)制定で、公務員・公共企業体労働者のスト権は剥奪され、団結権、団交権についても大幅な制限が行われた。
 民間の労働組合に対しても1949年の労組法政悪をテコに、アメリカ型協約を押しつけ、労働者と労働組合の権利を大幅に制限する攻撃が加えられた。
 1949(昭和24)年夏は、戦後の労働組合運動の大きな曲り角であった。中国革命の成功をみたアメリカは、日本を反ソ・反中国の前線基地にするための活動を強めた。前年12月に発表された経済9原則にもとづくドッジ・プランによって「合理化」政策・首切りがすすめられ、実数約100万人と推定される大量の失業者が生まれた。この攻撃に対決する戦闘的な労働組合に対しては、1949年7月の下山事件、三鷹事件、8月の松川事件などの謀略事件*が相次いでひき起され、首切り反対闘争はおしつぶされた。
 さらに、1950(昭和25)年6月、朝鮮戦争が始まったが、その前後に、日本共産党中央委員の公職追放、全労連の解散、レッド・パージ(共産党員や組合活動家一万数千人の解雇) が行われ、労働運動に大きな打撃を与えた。

●日本はどうして企業別労働組合が多いのか(リンクより [5]

…日本の企業別労働組合の歴史的な原型は、戦争中にそれまでの労働組合が解散され、労使双方が参加して組織された企業単位の「産業報国会」に見い出すことができます。
これは、労使双方が参加して事業所別に作られる官製組織であり、労使の懇談と福利厚生を目的としたもので、内務省の指導によって産業報国会は急速に普及し、労働者の組織率は、1938年で既に4割を超えていました。
そして、敗戦後の民主改革で労働組合が承認された際に、この企業単位の産業報国会が企業別の労働組合に衣替えして、現在の組織形態につながっているのです。
さらに、戦後は終身雇用が普及したので、労働者全般が企業に対する帰属意識が強くなったため、労働組合についても企業単位で捉えることが固定化したのです。例えば、労働組合の幹部経験者が経営者に出世することも珍しくなく、企業においては、労働者も経営者も本質的には一体となっているわけです。

●西欧諸国との比較(リンクより [6]

<東大名誉教授田端氏の見解>
・日本は①政府・企業主導型の産業国家(企業国家)であり、②企業内で完結する独特の労使関係構造になっている。それがヨーロッパのケインズ主義的福祉国家などとは異なる独自の経済社会を生んだ。しかし、韓国のように日本の制度を真似た国を除けば企業内組合を労働組合として認めている国はない。
・ドイツでは、労組は超企業的でなければならない、言い換えれば、企業横断的であることは当然だという。労組というのは自発的に労働者が集まる組織であり、従業員全員を代表する社内組織は、基本的な労働条件を決定できない。
こうしたヨーロッパの概念に従うと、日本にあるのは労働組合ではないのかもしれない。

以上から見えてくるのは、企業内労働組合とはまさに日本独特のしくみであり、戦後復興期の日本社会にフィットしたものであったということ。
戦後アメリカによる支配の下で、西欧流の労働組合が推奨されたが、日本人たちは企業を中核にした日本的な集団を作り、アメリカ人たちはその意味がよく分からなかったのでしょう。
もっとも、日本人たちもあまり深く考えず、自分たちにとって具合が良いものを選んだだけだったのではないかと思います。(まさに、そのことが日本的であることを示しているように見えます。)

終身雇用についても、明治以降に移入されたものであって日本独特のものではないといった意見もあるようですが、近代的産業組織が作られたのが明治以降なのだからそれは当たり前で、そのような集団をを指向するところに日本人特有のものがあると考えるべきだと思います。

西欧人の労働観は、日本人と決定的に違うところがあります。
キリスト教の影響が大きいと思いますが、西欧人にとって労働は苦役であり、その苦役を強いる労使間の階級が存在するという考え方がベースにあるようです。さらにその前提となる意識として、本源的な集団が解体され、個々人がバラバラになって神と個別に契約をするという世界観、個人主義の価値観が根深く横たわっていると見ることができます。

一方、日本人にとっては、村落共同体や大家族のような大店などの生産体の中で、みんなの力を結集して共に働くことこそが活力源であったと思います。
また、労使間の階級意識のようなものは元々の日本人には無かったと思われます。ほとんどの労働者の出自は農村で、村落協働体的な環境の中で育っているから、終身雇用や企業内組合など、みんなが活力を出せる組織が自ずと作られたのだと思います。
その後の、日本における生産力の発展を見れば以上のような背景があることは明らかで、このような感覚は欧米人にはとうてい理解できないと思われます。

なお、「自分よりみんな」といった感覚が、はっきりと概念化されてはいないにもかかわらず、現代の若者たちにとってごく当たり前に受け止められているように見えます。西欧流の近代思想・個人主義が下火になったあと、まさに日本的な感性が若者たちの中から前面に出てきているように思われます。

byわっと

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