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日本の精神 1~惣掟~

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  <惣村の四方にあった四足門>画像はこちらからお借りしました(リンク [1]

現代社会は旧い観念が通用しなくなり、規範などの不文律もほとんど無くなり、家庭も含めて社会全体がガタガタになってしまいました。
ヒトが成長していくためには、周りからいろいろなことを学んでいかなければならないわけですが、現代の親や先生たちは通用しなくなった旧い価値観念しか言葉を持たず、さらには、自己中な親たちが増えてゆくことによって自己中な子どもたちも増え続けているように見えます。
このような閉塞状況を打開するために、新しい規範をみんなでつくってゆくことが求められていると思います。

そのために、かつて日本社会に存在していた共同体的な集団やつながり、あるいはその中で育まれていた規範などを知り、これからの社会にふさわしい規範や関係づくりを考える参考にしたいと考えています。

昔の日本には、武士道や朱子学などの規範や教えがあり、日本の歴史を形作ってきたということを学校で教えていますが、それらは武家などの支配者たちのもので、どうみても庶民のものとは違います。
明治時代の新渡戸稲造の著作などによって、武士道やサムライが日本人の本性のように受け取る向きもあるようですが、明らかに間違いだと思います。

ということで、少し歴史を遡り、日本の庶民たちが自ら作った規範を見ていきます。

今回は「惣掟」についてです。

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※以下、ウィキペディア「惣村」より抜粋、引用します。(リンク [2]

鎌倉時代後期のころに惣村ができ始めました。それまでは、荘園などの領地が入り組んでいて農民たちは自作農地の近くにまばらに住んでいましたが、鎌倉後期のころから、社会の秩序が乱れ始めて旧来の支配勢力のたがが緩み、同時に牛馬を用いた耕作が始まり二毛作などの技術も発達したことから、農民たちは自作農地から離れたところに集まって住むようになり、集落を形成し始めました。
そこでは農民たちが結束し、支配層に抵抗できる力を蓄え始めました。

南北朝の戦乱期を経て、室町時代に入ると、惣村は自治権を確立するために地方の武士たちと関係を結ぶようになっていきました。

惣村では、「乙名(おとな)」、「沙汰人」、「若衆」といった指導者たちがいました。
乙名」は惣の構成員全員の中から主に年功序列で選ばれるリーダーで、祭礼などを取り仕切る「宮座」の指導者でした。
沙汰人」とは旧来の荘園領主の代理人の立場の者で、その地位は世襲されていました。
若衆」は乙名になる前の若年者のことで、警察・自衛・消防・普請・耕作など共同体の労働を担う中心でした。

惣村の内部は「宮座」を中核に結束し、重要な決め事は構成員の「寄合」で決めていました。
惣掟」は、惣村の繋がりを維持するために寄合で取り決められた規約ともいうべきもので、違反した者に対して、惣村自らが追放刑・財産没収・身体刑・死刑などを執行する「自検断(じけんだん)」が行われることもありました。
追放刑や財産没収は、一定年限が経過した後に解除されることもあったが、窃盗や傷害に対する検断は非常に厳しく、死刑となることも少なくなかったようです。

それまでの法習慣では、支配層である領主たちに検断権があるとされていましたが、彼らを差し置いて農民自らが「自検断」を行っていたわけで、それだけ自治が確立していたということです。

惣掟の事例は以下のようなものです。(近江国の今掘惣のもの) …引用元(リンク [3]

一、寄合の知らせを二度も出したのに出なかった者は、罰金として五十文を納めること。
一、森林の枝を切った者は、罰金として五百文を納めること。

■以上は1448年の例ですが、のちの時代になるともっと細かい決まりが定められるようになりました。
下に示したものは1489年の例です。

一、薪や炭は村のものを使うこととする。
一、村内の者が身元保証人にならねば、他の村の者を村内に置いてはならない。
一、犬を飼ってはならない。
一、家を売った者は、百文について三文、一貫文について三十文ずつ村に納めること。
  これにそむいた者は村から追放する。
一、濠より東に邸をつくってはならない。
一、二月と六月に行う猿楽のとき、猿楽師の一座に出す謝礼は村から一貫文とし、これに違反した者は宮座から除名する。

けっこう雑多なことが決まりとして定められていますが、当然、これらのことだけで惣村がうまくいくとは思えません。

そのカギは寄合にあったと思われます。その様子は次のようなものであったようです。

……以下、引用(リンク [4])……

中世の惣村において、その意志決定は、鎮守や寺庵で行われる集会(しゅうえ)・寄合においてなされていた。集会は村落住民の権利であり、義務だった。ここでは、合意形成のプロセスについて述べられ、互いに意見を出し合い、先例を根拠にして議論を行った上で多数決による決着がはかられる。そして、決定事項についての確認として、「起請文」を書いて署判した。その後、それを焼いて神水にまぜ、一同でまわし飲んだのだった。
~中略~
また、集会には定期的なものと非常時のものがあった。~中略~ 
平時の集会では、早急に結論を出さねばならない問題があるわけではないため、時間をかけて互いに認識を深め、参加者全員の合意を得ようとしていたが、緊急時の集会では「多分の儀」(つまり、多数決)で決着をつけていた。(酒井紀美、2003年、87ページ~98ページ)

(「森川小屋:中世の一揆 [5]」 より引用)

ここで注目すべきは、「平時の集会では、早急に結論を出さねばならない問題があるわけではないため、時間をかけて互いに認識を深め、参加者全員の合意を得ようとしていた」という点じゃないでしょうか。
……(一部略)……
自分達の生きる場を自分達の手でつくっていくとすれば、このような時間をかけて認識を深める議論が不可欠と考えます。

現在の私達から見れば“立派”な、しかし、至極当然の「合議制」が惣村では行われていたということですね。
(個人的には、決定事項を記した書面を残さない、というあたりも惣村という共同体の適応の巾を広げていたように思います)

……引用、ここまで……

惣掟に書かれていることは、ごく基本的な約束事とその時々に問題になった特別なこと、といったあたりでしょうか。

だから、それらの取り決めをする以前のところに大事なことが含まれていたと思います。

祭礼などを取り仕切る「宮座」が中核にある関係がまずあり、それをベースに皆が一堂に集う「寄合」がカギになっていたと思われます。
平時の寄合は、互いの信頼関係をより深める場であっただろうし、その信頼関係を基に、緊急時には、「どうする?」、「どうすればうまくいく?」といった実践課題に皆が向かい、抽象的・観念的な理屈など不要だったのだと思います。
だから、対立を孕む多数の部外者を従わせるための武家の規範とは全く違うものであったのは明らかだと思います。

さて、その後の時代の変遷の中でどのようなつながりや規範が生まれていったのか、次の記事をご期待ください。

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