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日本の精神 4~村落共同体の充足規範 「結」 ~

こんにちは~

今回は、日本の精神シリーズ第4弾「結」について追求してみたいと思います。

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上記の写真は、ある老夫婦がトラックで苗を運んできたとき、自然発生的に「あそこのじいちゃんとばあちゃん、身体もしんどそうでたいへんだから、みんなで協力して植えんまいけ」と声を掛け合いながら人が集まり、みんなで苗を植えて完成した田んぼだそうです。

続きは、応援ぽち後よろしくお願いします!!

ありがとうございます 😀

○結ってなに?

「結」とは、労働力を対等に交換しあって田植え、稲刈りなど農の営みや住居など生活の営みを維持していくために共同作業をおこなうこと、もしくはそのための相互扶助組織のことです。

社会基盤の維持にかかわるものは特に自普請ともよび、労力、資材、資金を提供しあう互助活動全体を指します。地縁にもとづく「近所付き合い」とみなすことも可能であり、古くは「十分の付き合い」や隣組も結の一種といえる。また、広義には無尽や消防団などは資金や災害対策の労役に限った結であるといえます。

一人で行うには多大な費用と期間、そして労力が必要な作業を、集落の住民総出で助け合い、協力し合う相互扶助の精神で成り立っています。

かつては日本では一般に見られたが、地域のつながりが薄れ、無くなりつつあると言われる。伝統を重んじる地域や国、発展途上国など世界各地で見られます。 😯

○事例(ウィキペディアより引用)

・中部地方の合掌集落

 日本の富山県の五箇山から岐阜県の白川郷の合掌集落では、現在でも合掌造りの茅葺屋根の葺き替えに結の制度が残っている。葺き替えは約30年-40年に一度行われ、それにかかる労力と費用は莫大なものである(単純に人件費を現代の価値に換算すると片面の葺き替えだけでも1千万円以上ともいう)が、これらは無報酬で行われた。

・沖縄 「ゆいまーる」

 ウージ(サトウキビ)畑の収穫の際、例えば5人でゆいまーるが組織されたとする。そのとき5名が一致団結して一件ずつ順番に全てのサトウキビ刈りを行う。この組織を「結い組」というが、リーダーの存在しないインフォーマル・グループ(組織の中で自然発生的に生まれる人間関係)なのである。ゆいまーるは農作業に限定されず、家屋や墓地の建造にも及ぶ。
 ゆいまーるをくむ人々は親戚、近隣住民、友人などさまざまであるが、ゆいまーるを通して家族同様の長い付き合いをすることになる。

・台湾

 日本統治下にあった台湾では隣組が導入され、相互扶助が相互信頼に繋がり台湾の歴史の中で社会的に一番安全な時代であり、家に鍵など掛ける事などはなかった。

・インドネシア
 インドネシアにも隣組が導入された経緯があり、第二次世界大戦後もインドネシア政府はこれを続けた。スマトラ沖地震による津波の被災やその後の復興時にも、隣組が機能し役立ったと、当時報道がなされた。

※隣組
 隣組は、日本の昭和期において戦時体制の銃後を守る、国民生活の基盤の1つとなった官主導の隣保組織である。(現在は、隣組はGHQによって解体されたが現在でも、回覧板の回覧など、隣組単位で行なわれていた活動の一部は、町内会・区(政令指定都市の区ではない)・自治会に引き継がれている。)

なるほど~村落共同体にとって共同作業は必須で、そこには私権追求意識など存在せず、お互いさまという相手を思う意識が高く、そこからみんなで充足を分かち合う規範が「結」なのですね。

また、他国にも日本の「結」は、必要とされ評価されていることは、全ての人が「結」という規範を潜在思念で必要と感じているのではないかと思います。

今度は、村落共同体が残っていた江戸時代の人々は「結」をどう捉えていたのでしょうか? :confused:

○村落共同体の規範の一つが「結」

新現役の会 江戸社会から学ぶより引用 http://n-geneki.com/edo_01.htm#5

 江戸時代の人々は、金銭抜きに”お互いに何かをあずけ合っていた”のではないかと思う。もし、そこにお金の介在があったら、それは雇用関係であり、”あずけ合う”関係とは言えない。厳密に言えば、仏教用語のとは、他人に何かをあずけることでなく、自分の中の仏にあずけることだ。宇宙の成り行きに自分をあずけることである。

 他人に何かをやってもらうことを期待するのでなく、成り行きにあずけるだけなのだ。必要とあれば、そこに人の手がさしのべられる。いつの間にか、自分が人を助けることもある。これは、無理にやと言う考えを教え込まれたりしなければ、人間にとってはごく自然なバランス感覚なのではないかと思う。

 助け助けられるためには、お互いに相手の様子がわかり合っている、と言うのも大切な条件である。逆に、お金を軸にして展開する現代風のでし、して生きる生活の基本には、人に見せない秘密の部分がある。それを、今は<プライバシー>と呼んでいる。とも言う。

 お金が唯一の価値の基準となり、暮らす、食べる、話す、知ると言う生きるために必要なことごとくが、かなりの額のお金なしには出来なくなる。人は生きるために、社会の役割に自分を縛りつけ、それによって何かと生活しようとする。社会や仕事は、人に一定の範囲の行動や考え方を強要するようになり、それで秩序が維持される。

 お金以外にも価値基準がいくつもある社会なら、その中から好きな基準を選んで生きることが出来るが、お金が唯一の価値になれば、その唯一の価値観に合わせられない人は生き方や考え方に不自由を感じるようになる。

 誰でも一度は考える。お金さえうんとあれば、仕事なんてやめてやるのに、と。お金さえあれば、もっと自由になれるのに、と。そして、自由を求めてさらに懸命に働き、さらに不自由になっていく。

それが現代の豊かさなのだ。

江戸時代は、外国からは貧困が存在したと思われていますが、実際に暮らしていた村落共同体の人々は貧しいなんて思っておらず、その生活ではみんな充足していました。その充足源が「結」だったのではないかと考えられます。 :nihi:

周りに期待し、自分も周りの期待に応えていくそうした社会が江戸時代の村落共同体にはすでに築かれていて、お金ではなく、如何に周りを充たすことができるかという評価を第一価値としてみんなで共認していたから、その集団内では誰一人貧しいと思う人はいなかったということが納得できます。 🙂

現代は、近代思想による導入により、お金が唯一の評価基準となっているため、お金を求めて豊かさを追求しています。しかし、そこでの追求は結局一時の充足は得られるものの本当の充足には結びつきませんし、次につながる活力源もうまれません。 😥

本当の充足とは、そこからみんな(社会)に役立つことによって自然に生まれるもので、次につながる活力を生み出すことのできるものです。 :tikara:

これからの社会に必要なのは、みんなが充足できる成功体験であり、みんなが共認できるからこそ規範となる可能性が高く、その一つが「結」なのだと思います。 😉

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