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婚姻史シリーズ(29)~村内婚と村外婚~

今回は、夜這いシステムによって村の基盤が成立していた時代から市場の可能性が開かれたことによって婚姻システムが変化した時代について追求してみました。 :nihi:

江戸時代まで村の婚姻システムを担っていたのが、夜這いを中心とした村内婚です。 😯

村内婚は、村の生産基盤を安定化させる上で重要なシステムでしたが、明治以降市場の可能性が開かれ、村内婚を成立させる重要な役割を担っていた若者たちに大きな変化をもたらしたようです。 🙄

村内婚から村外婚へと変化した事例を紹介したいと思います。 😛

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その前に、応援ぽちよろしくお願いします。 :tikara:

村内婚時代から村外婚時代へ 阿波学会研究紀要より引用

古くはヨバイは「婚」と書かれ結婚を意味していた。

日中はきびしい労働に追われていても、夜がくると、若者同志でさそいあい娘のいる家へ遊びに行った。このころ娘たちは、夜おそくまで糸をつむいだり、米つきなどの夜なべ仕事をしていた。

その仕事場ヘ、最初は集団(4~5人の仲間)で遊びに行き、メオイといって、各自が大根やニンジンなどの野菜を持ち寄って夜食をたのしんだ。
 
これが回を重ねるうちに、若者仲間の承認によって1対1となり、それがヨバイに発展し、婚姻が成立するというケースが多かった。

また、大俣の八幡さん、上喜来の紅葉庵、犬の墓の太帥堂などの縁日や、盆のおどりなどに、近郷の若い男女が集まった。
 
こうした場が男女交際の唯一のチャンスであり、ヨバイの糸ぐちとなっていた。
 
この地方においては、神山町焼山寺にみられたような「ボボイチ」、一宇村太刀之本の「阿弥陀市」のような風習のあったことは聞き取れなかったが、おどりの輪の中で、男が好きな女のタモトにそっと菓子を入れて求愛する風習があった。
 
また、養蚕の盛んであったころ、讃岐から山を越えてたくさんの娘たちが「カイコカイ」といって出稼に来ていた。

この地方のヨバイの全盛時代は、養蚕の全盛時代と一致するといわれている。
 
若者組は、年令階梯における1つの組織体であった。この地方では、若衆組とか若連といった。

若連が主役をつとめたのは、村の祭礼行事や消防などであった。

神輿をかつぎダンジリを引く若者の姿は今もみられるが、昔の若連は、村の年中行事に大きなかかわりをもち、村落共同体の支となっていた。

部落意識の強かった明治以前は、村外結婚を好まなかった。

村の娘が他村へ嫁ぐ場合、若衆が嫁入の行列に向って石を投げたり、水をかけたりしてじゃまをする風習があった。

若者組のきずなのきびしい村落共同体においては、若者頭の承認がなければ他の村へ嫁入することができない地方さえあった。

 上記の事例のように、明治以前は、夜這いが村落共同体の支となっていることがわかります。また、夜這いという規範を崩されないよう若者たちが中心となって死守していた事例からわかります。

 では、明治以降はどうだったのでしょうか? 🙄

明治・大正年代までは村内婚が主であった。

昭和の初期にいたって近郷町村へとが広がり、戦後の交通機関の急速な発達と、高度経済成長に伴う都市化現象によって、若者の行動範囲が広がり遠方婚へと移行した。

村内婚の時代が長くつづいた後、明治末年ごろから、隣接町村の阿波町・土成町・吉野町へと広がり、また、阿波大影から讃岐の大楢・五名方面へのびた。

昭和年代にはいり、中央橋や瀬結橋が完成して、吉野川南岸の麻植郡内の町村との通婚がみられるようになった。

橋のなかった時代は、「川越えは間にあわない」といってけいえんされたという。

阿波と讃岐との通婚は、讃岐の娘が阿波へ嫁ぐことはあっても、阿波の娘が讃岐へ嫁ぐことは稀であった。

引用終わり 

明治以前では、川を越えてまで相手を見つけるということは、ほとんどありえなかったようですね。

そもそも、村落が第一の若者にとって、そういうことを考えないほうが自然ですね。

しかし明治以降は、市場の可能性が開かれたことによって、経済発展が進み、交通機関等の整備も進み、若者の行動範囲が広がりました。

このことで村落内だけでなく、村落外で相手を見つける可能性が生まれ、村外婚が急速に広がり、村落共同体の支えとなっていた夜這いシステムが失われ、村落解体へとつながったと考えられます。 🙁

現在、この村外婚から見合い婚、恋愛婚へと婚姻形態が変化したことで現在のような核家族を形成するまでに至り、家庭の問題に関して周りが指摘できない社会空間へと変化してしまいました。

これから家庭問題をはじめとする社会問題を、解決するには広いつながりが必要です。

答えの一つに、それぞれの役割を自覚し、「周りに期待する」、「周りに委ねる」ことのできる村落共同体の考え方があると思います。

しかし、それだけでは今の社会の問題に対して答えを出すのは非常に難しいでしょう。

だから以前に形成されていた村落共同体を超える集団の形成がなければ、答えを導くことはできないのだと思います。

その答えを出すための方法としてインターネットがあります。 😀

今、インターネットは、社会を形成する一つのツールとして可能性を秘めていて、このインターネットからの発信によって、村落共同体を超える集団を形成する可能性はあります。

そのインターネットの場でみんなが歴史構造を踏まえた事実認識を追求することによって、これからの社会問題に対して答えを導くことができると確信しています。 😉

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