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婚姻史シリーズ(22)~許婚と見合結婚~

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画像は ここ [1] からお借りしました。

今では、恋愛結婚が当たり前のように、そして、
1960年代後半には、見合結婚から恋愛結婚の割合が上回ったことは、当ブログ [2]でも、何回か取り上げていますが、
その前は?
と聞かれると、・・・・・・・・

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戦後、親の承諾なしに本人同士の合意の元に結婚できるように法制化されたものの、家や親戚縁者との付き合いなどを考えると、当時はそうそう好き勝手に本人同士の合意だけでは、結婚できなかった。
高度経済成長期以降に、恋愛結婚と見合結婚の割合が逆転し、豊かさ、つまりは私権の獲得の可能性が皆に開かれたことと恋愛結婚の割合の伸び率とには相関関係がありそうです。
現在では、結婚そしてその後の生活も親の援助を当てにしている人も増えてきているが、少し前までは、少なくとも経済的には親から独立して家庭を築いていたように思います。

さて、本題に戻り、
見合結婚の前は、と聞かれて
許婚?」と答える人も少なからずいるのではないでしょうか?

許婚→見合結婚→恋愛結婚

という流れなのか、検証してみたいと思います。

まずは、許婚と見合結婚について

許婚(いいなずけ) [3]

許婚(いいなずけ)とは、現在の概念では幼少時に本人たちの意志にかかわらず双方の親または親代わりの者が合意で結婚の約束をすること。また、その約束を結んだ者同士をさす言葉。許嫁とも書かれる。
室町時代ころから武家の間で男性支配の婚約の形として、当事者の意志に関係なく取り交わされる形になった。これは、戦乱の世の中で、政略として結婚が行われたためと考えられる。
現在の日本国憲法第24条や日本法(民法)によって、当事者に婚姻の合意があることが規定されており、許嫁は建前上は存在しない。ただし、未成年者においては親権者の合意も必要となる。

「お見合い」の歴史 [4]

明治時代に入り、近代西洋を模倣し、明治31年に民法が裁定され、それまで村落・家・個人などの取り決めに委ねられてきた結婚は、法制度の中に組み込まれることになりました。
明治になり、西欧から入ってきた文化の一つに「恋愛」があります。しかし、啓蒙家により、恋愛が宣伝されたものの、遊郭や妾が公然と認められていた時代にあっては、恋愛と結婚を結びつける意識は薄いものでした。そして、近代日本に台頭してきたのは、恋愛結婚ではなく、お見合い結婚だったのです。
「仲人業」があらわれたのも、そのことを物語っています。1880年(明治13年)に山口吉兵衛が大阪で始めた「養子女婿嫁妻妾縁組中媒取扱所」がその元祖と言われ、1884年(明治17年)には、東京、日本場しに「渡辺結婚媒介所」が誕生しています。

このような背景には、貨幣経済の導入による村落共同体の崩壊がありました。大都市へ人口が集中したことにより、地縁・血縁を頼りに結婚相手を探すことが、難しくなっていったのです。そして1933年(昭和8)には、東京市に公立の結婚相談所が設けられました。

許婚→見合結婚→恋愛結婚
という単純な図式ではなく

許婚・・・(明治時代以前の)武士階級が中心
農村(一般庶民)では、
明治になってからは、
江戸時代の武士階級の『家制度』に倣った
家父長権が導入されたが、
昭和初期、一部では、第二次世界大戦前まで
若衆宿、娘宿の風習(性規範)が残っていた農村では、
許婚も見合結婚もあまり関係のないものであった。
当然、結婚に関して言えば、父親の家父長権も意味のないものであった。

比較的身分の高い(一応、身分制度は廃止されていたから)
経済的に豊かであった又は、格式があった地主や庄屋さんなどが、
さらに私権を獲得するために、家父長権を元に
見合結婚で、嫁をいい所に嫁継がせて、娘の将来の安定娘の親(家)が私権にありつこうとしていたようである。

さらには、
市場社会が広がり、人口が増えていった都市部を中心に私権の獲得という意味合いでの見合結婚が増えていった。

許婚と見合結婚を親(家)の立場からみると、
私権を獲得する上で女を物・財と扱っている点で繋がっているといえよう。親の反対を押し切って、又は、娘の好き嫌いが許されるには、親が私権の獲得を諦めるか、一定豊かでないと成り立たない。

風潮として
男は、身分の低い女と結婚することは出来たが、
女は身分の低い男と結婚することは無く、出来る限りいい所に結婚しようとしていた(上昇婚)。今で言う玉の輿。

では、出来る限りいい所に結婚するには?

次のシリーズ(23)で明らかに

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