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婚姻史シリーズ(20)~父系制への道を開いた税制度の歴史

明治時代に突入してからの父系制への転換に、前稿の土地所有権の確立 [1]と共に影響を与えたと考えられるのが税制度です。

今日は日本の税制度を少しおさらいしてみます。

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今は「インターネットで確定申告」ってな時代ですが・・・・・写真はコチラ [2]から

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第一章我が国の租税制度の変遷 [3]より抜粋させていただきました。

1.税の始まり
我が国における租税の発祥は、古代「みつぎ」「えだち」にあるといわれているが、大化改新により律令制度が成立し、諸制度の大改革がなされた際、唐に倣って「租・傭・調」が租税制度として採用された。「租」は田畑(口分田)の収益を、「傭」は個人の労働力を、「調」は地方の特産物を課税物件としたが、その他にも雑徭兵役など重い労働負担がかせられたことから、農民の逃亡等を招き、結局うまく機能しなかった。

2.荘園時代
奈良時代以降は、律令制の解体に伴い私有地=荘園が拡大し、各領主は国家とは別に、荘園を基礎に年貢を課す状況だった。

3.封建制度の確立期=年貢の確立
鎌倉時代には封建制度が確立し、領主の財政需要を賄うため農民が収穫した稲の一部を現物で納める「年貢」が中心的な租税だった。しかし、当時は田地の所領関係が錯綜していたため税負担は非常に重かったようである。

4.市場化による税制度の多様化と石高年貢(=土地に対する税の始まり)の確立
室町地代は商業の発達に伴い、これまでの年貢に加え倉役、酒屋役といった商工業者に対する新たな税が生まれ、幕府財政を支えた。
豊臣秀吉が行った太閤検地により、土地に関する税制が整備された。太閤検地は、度量衡の統一をし、高知の実地調査により土地の生産力を玄米の生産量(石高)で表した。そして、その石高に応じて年貢を課すこととされた。また、検地帳に土地の直接耕作者を登録し、その者を租税負担の責任者とした。
江戸時代は、年貢を中心とした農民に対する税が中心で、田畑・屋敷を課税対象とし収穫の約40%(四公六民)程度を納付する本年貢、山林や副業などの収益に対する小物成、労役の一種の助郷役などが課された。その他、商工業者の対する税として運上金・冥加金といった営業税や免許税を含め、各藩ごとに種類・名称・課税方法を異にした雑税が存在した。

5.明治初期の税制
明治維新後、版籍奉還・廃藩置県により国内の政治的統一が達成されると、諸般の債務を受け継いだ新政権の財政は困難な状況に陥り、安定した税収を確保するための統一的な租税制度への改革が急務となった。
まず、政府は、明治6年(1873年)に地租改正条例を公布し地租(年貢)の改正に着手した。
新地租は、耕作者ではなく、地券の発行により確認された土地所有者(地主)を納税義務者とし、収穫量の代わりに収穫力に応じて決められた地価を課税標準とし、豊凶に関わらず地価の3%で課税するというもので、納税は貨幣で行うこととされた。
印紙税(明治6年)、煙草税(同8年)、株式取引所税といった税が採用された。

⇒お金ぜ税金を納める事が原則となり、農村が市場に飲み込まれる転換期となったのは間違いない。
豊作の時は米の価格が下がり、凶作どは勿論売る米が無い。それまで売買を知らないような農民には、うまく立ち回ることは困難で、土地を手放し小作となる農民が多く、これが大地主登場のきっかけとなった。(=自作農が没落し、小作農や労働者になる者が現われ、その反面、寄生地主に成長する農民の登場=地主)
インフレ、デフレの大きな波が繰り返されたのも影響としては大きい。
この大地主は、政府から見れば、良き納税者(=パトロン)でもあり、暫しの間、地主に有利な政策が取られる事になる。

7.明治中期
明治10年頃は、税収入の構成は、地租の比率が圧倒的に高く(明治10年までは約80%)、明治初期の財政は、当時の中心的な産業であった農業の生み出す価値によって賄われていたといえる。
その後市場化が進むにつれ、多くの現行租税の原型が作られた。
明治20年に所得税が創設
創設当時の所得税は、1年300万円以上の所得を有する限られた数の高額所得者(明治20年に12万人)に対して、5段階の単純累進税率(1 ~3%)で課税するというものであった。
明治後期には、所得税対象が拡大し(明治32年で34万人)、法人税も導入される。
その他、登録税、営業税、相続税、酒税の増徴、地方税、と整備されて近代税制の下地が出来たといわれている。
税務署の設置もこの頃に行なわれた。

8. 大正・昭和初期の税制
大正。昭和初期にかけては、経済変動や戦争に伴う税制需要の増大を背景に、既存の租税に対して様々な改正(=増税)が行われた時期である。
所得税増税(こういうときに決まって勤労所得控除や扶養控除等という逃げ道が作られるのも面白い)、銀行金利子、配当、賞与が課税、等と思いつく限りの税制度を導入している。
大正14年には、所得税(個人)の納税義務者は、すでに180万人にも達している。
その他、主に戦時の財政需要を賄うため、揮発油税、物品特別税(昭和12年)入場税(昭和13年)等が創設された。

⇒この様な税は、取れる所から取る訳で、日本経済の中心が農業から商工業に移った時代を表している。

9 戦時期の税制
戦時中は兎に角増税ラッシュ!!
昭和12年の日中戦争勃発以後、特別税の創設や臨時的な租税の増徴が行われたのをはじめ、昭和16年に太平洋戦争が勃発すると毎年増税が繰り返された。
大衆課税化がすすみ、昭和15年以降4年間で所得税(総合所得
税分)の納税者が約400万人から1,200万人へと一挙に3倍に拡大していく。
税率の引き上げも急で、最高税率は昭和19年の74%にまで引き上げられた。

10.戦後混乱期の税制
第二に世界大戦後の日本経済は、国土の荒廃、企業の倒産、さらには深刻なインフレに見舞われ、混乱を極めており、税制もそのような自体への対応を迫られていた。
戦時下に創設された種々の臨時的な租税が廃止され、財産税や戦時補償特別税が創設された。前者はインフレ防止と富の再分配を目的として最低25%から最高90%と言う超過累進税率で1回限りの税を課すもので、後者は政府に対する軍需会社などの戦時補償請求権に対して100%の税率で課税することで債務の打ち
切りをはかるものだった。
また、戦後の占領軍による「民主化」の影響が大きく、所得税において申告納税制度が採用され、課税単位も従来の世帯単位主義から個人単位主義に改められた。
相続税に関しても家制度の廃止に伴い、家督相続とその他の遺産相続とを区別して取り扱ってきた制度が廃止された。

こんな中、庶民がどう動いたのか?
江戸~明治の大転換期の記録を紹介します。

秋田杉の歴史 [4]

明治時代(藩有林は国有林に)
 
慶応3年(西暦一八六七年)秋田藩は大きく生まれ変わろうとしていました。廃藩置県が布告され秋田藩は秋田県と改称されました。二百七十年にわたる佐竹氏の秋田支配は終わり秋田藩と秋田杉のつながりが切れました。藩有林は一時県の管理化におかれましたが、政変の混乱などにより乱伐、盗伐が横行し「あきた杉」の蓄積量は目に見えて減少していきました。その後、藩有だった山林はすべて国有になり林政も急テンポで進められる一方、各地で国有林解放運動としての住民の抵抗も起こりました。
—<中略>—
藩有林は国のものに、民有林は農民のものになるという制度が農民たちを戸惑わせました。そこには「山は自分たちのもの」という意識が強かったのです。藩有林といえども実際に植林し、管理してきたのは農民であり、藩もまた農民に山林を利用する権利を認めていました。藩政時代はいわば藩と農民の”あいまい”な慣行によって維持されてきました。それが明治政府になって山を国のものと民間のものとを区別しなければならなくなり、山はそう簡単に区別できるものではないという農民たちの考えと大きくかけはなれていました。そうして地租改正が行なわれ、直山、運上山、御札山などはすべて国有になり、また民有にするための物的証拠がほとんどなく、逆に政府の方が従来の慣行を認め民有地にしようとしても農民たちは、民有地にして税金をとられるのではないかと尻込みしてしまうありさまでした。
—<中略>—
このようにして当時の秋田県内の山林原野約八十万ヘクタールのうち六十六万ヘクタールが国有林に編入されました。そして農民たちの心は完全に山林から離れていきました。「もう山は自分たちのものではない」。農民の植林意欲は消え、農民に見放された山林は次第に衰えていきました。

⇒農業も同じ感覚が大勢を占めていたと考えられます。土地が「誰の物」等といった私有意識が無い農民達は、力をあわせて皆で山や畑や田んぼを守ってきた。
ところがいきなり、「ここはあなたの物で、あなたの責任で税金払いなさい」と言われるわ、「国の物には触れてはいけない。」とも言われて、大混乱。
しかも、自然相手ですから、「オラの山だけ守っぺか!」てなわけには当然イカの○玉でしょ!!!

小平の歴史(明治時代 御門訴事件) [5]

明治に改元した翌年、小平始まって以来の大事件が起こります。新政府になって品川県より「社倉御取立」が達せられたのです。社倉とは、飢饉などの際の窮民救済のために設けられた穀物倉庫のことです。武蔵野新田では、川崎平右衛門が作った「養料金」制度があって管理は村、配当も村で分けていました。また、それも裕福な農民が雑穀を納めるだけで良かったのです。また一帯は、生産性の上がらない土地のため幕府からは年貢も減免されていました。それが県の預かりになって、それも品川県の場合は、米1斗1円の割合で金納、そして土地の無い人からもそれなりに3升分、2升分、1升分と金納せよと言うのです。いくら自分たちのための備蓄だと言っても納得がいかなかったことでしょう。また、前年には大風雨で洪水が起こっていますから畑も荒れていて、今が飢饉なのですからこれからの飢饉のための積立どころではなかったのでしょう。

 そこで武蔵野13ヶ新田(大沼田新田・野中新田与右衛門組・野中新田善左衛門組・鈴木新田(小平市)、関前新田(武蔵野市)、田無村、上保谷新田(西東京市)、関野新田・梶野新田(小金井市)、柳窪新田(東久留米市)、戸倉新田・内藤新田・野中新田六左衛門新田(国分寺市))は免除の嘆願書を県に提出します。一回目は明治2年11月に、12月には田無村が脱落して12ヶ新田となりますが、12月22日に再度提出します。すると役所は社倉を納めるようにと、野中新田名主定右衛門ら名主を呼びだしますが、首を立てに振らないため軟禁されてしまいます。
 ここで農民7~800人が決起して東京府まで門訴に向かいます。ところが、県はこの噂を聞き淀橋(新宿区西新宿)辺りで軍隊を出して待ち伏せをします。そこで大半は差し止められるのですが、小石川方面から迂回した人たちが日本橋浜町の品川県庁に達します。その農民を県は、馬・刀・鉄砲で追い払います。農民も抵抗して、50人余りが逮捕されます。県側にも怪我人が出たことで、村に帰った農民も合わせて51人が捕らえました。
 新政府も財政難で役人達の給料の中から割り当てで救荒積立金を出したり、年末には全官庁職員の給料をカットしたりしていたので、一般の農民よりも名主には拷問による厳しい取調べが行われて、首謀者とされた野中新田名主定右衛門など8名が亡くなりました。名主にとっては百姓との板ばさみでとても痛ましい出来事でした。
 こうして御門訴事件は終結したのですが、同年6月に改めて出された「社倉御取立」では、特に貧しい農民は免除され量も減免されたとのことです。また後に、この時積立られた返還金で慰霊碑を建てたり、小学校建設費に当てたりしたそうです。

⇒まさに村落共同体の解体場面です。この様にして、村の共有物を取り上げて、共同性を解体させてしまったのが明治時代の近代化だったのでしょう。

土地の所有権の確立+土地に対する徴税があいまって村の共同性を解体した。
村落では、地主の家族、小作の家族と分断された。
こんな農村に住んでいられない、又は魅力は無いと感じた農民が多かったと考えられます。
そして、市場化は都市への引力を増大させた。
市場化=金を中心とする社会へまっしぐらに進んだのが明治時代だったとも言えます。

この激変期に、金を手に入れる事が出来たのは、極一部の男子で、彼らが家制度の家長として存在していたのだと思います。
いえとの関係は、更に調べてみたいと思います。
では、今日はここまで。

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