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不登校どうする?!14~『みんな期待』に応えること~

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不登校どうする?!シリーズです。
前回・前々回は、最近の子供たちの『仲間収束』をテーマにしました。
 
不登校どうする?!12~学校へ行くのは「仲間がいるから」?!~ [2] 
不登校どうする?!13~「いじめ」って?!~ [3] 
 
現在子供たちは、「仲間圧力」を絶対化している一方で、「親和欠損」を孕んでいるために、その適応力を一向に獲得できず(仲間充足が十分に得られず)、関係は「表層化」する一方です。つまり、“新たな活力源を見出せない”状況に陥っています。(参照:不登校どうする?!9~反応欠損と自分観念~ [4]
 
そうであれば、根本的にはまず「親和欠損」を改善する必要があると考えられますが、それよりも重要であるのが、『仲間圧力を超える課題圧力』を生み出すことです。これを上手く設定することができれば、「親和欠損」を気にする余裕もなくさせ、また肥大化した自我を封鎖させることもでき、課題を担う中で、“皆で共認充足の獲得(心底の期待)を実現する”ことができる可能性があります。
 
では、そのような課題圧力を生み出すには?
 
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『次代を読む – るいネット』 [5]に答え(基本方針)がありますので、紹介します。
 
●序列原理から共認原理への転換
 
 やりたいことを真剣に探しているのは、学生ばかりではない。経営者も、「出口が見えない」「答えが欲しい」と必死に探している。つまり、誰もが目標を見失って、答えを探しており、それは、もはや自分だけの課題ではなく、みんなに共通の普遍的な課題になってきている。
 
 実際、家庭も、学校も、企業も、国家も、それぞれに深刻な問題を抱えて行き詰まり、今や目標を失ってフラフラと迷走しているだけである。では、人々が目標を見失い、社会がここまで閉塞してしまったのは、いったい何故なのか?
 
 それは、(先進国では)’70年頃に貧困を克服してしまったからである。それまでは、人々は飢えの圧力(=生存闘争の圧力)に晒され、飢えから逃れるために、必死になって働いた。生存闘争の圧力の下では、成員は序列原理(力の強い者に弱い者が従う仕組みで、徹底した力の原理とも言える。殺し合いを避ける本能の仕組みで、人類社会の身分制度も、これに基づいている)によって統合される。そこでは、誰もがいい大学(身分)、いい生活(お金)、いい女を、つまりは序列格差の旨味を求めて争う。そこでの身分やお金は、自分だけに所属する私有権であり、女(or男)でさえ自分だけの独占物である。その意味では、誰もが私権の獲得という目標に収束することによって、集団や社会が秩序化され、統合されてきた、私権統合の時代であったとも言える。
 
 
 しかし、’70年、飢えの圧力(=生存闘争の圧力)が消滅するや否や、序列原理(身分制度)は無効となり、それまで力によって抑え込まれてきた人々の意識は、一気に反身分⇒反差別⇒「人権」「福祉」などの観念に収束する。
 
 生存圧力が克服され、序列原理(力の原理)が無効となった以上、集団や社会は、人々の『共認』(課題や役割や規範を認め合うこと)によって統合される以外にない。だからこそ、それまでの政界や財界に代わって、マスコミが第一権力にのし上がったのであり、’70年を境に、既に時代は序列原理の時代から共認原理の時代へと、大きく転換していたのである。
 
 若者は先行して仲間収束を強め、共認原理に導かれて仲間第一の空間を形成してきた。いじめが深刻化したのも、仲間絶対の故である(昔は仲間より私権第一であった)。
 
 しかし、仲間と言っても、その大半は学校(or企業)の中で形成された仲間でしかない。ところが、家庭であれ、学校であれ、(もちろん企業であれ)、私権の獲得という目標に収束することによって統合されてきた集団は、貧困が消滅して私権への収束力が急速に衰弱したことによって、統合力を失い、ガタガタになってきた。今や、それら私権集団は閉塞するばかりであり、それらの集団の中で答えを求めても、そこには何の可能性も残されていない。
 
 多くの若者が、「家庭は面白くない」「学校は面白くない」「企業はもっと面白くない」と感じており、そこが自分の本当の居場所だと思えなくなってきている。仲間空間さえ、何の課題もない表層的な仲良し空間でしかなく、その中でいくら探しても答えは見つからない。だから、いつも「何か面白いことはないか」と探し求めている。
 
 
 そこで、新たな可能性を求めて「集団」の外に、新しい仲間を求めようとする。これが、メル友・旅行・イベントや路上のオープンカフェや人間ウォッチングやパフォーマンス等に向かう、人(みんな)収束の潮流である。
 
 これは、これまで私権を確保しなければ生きてゆけないという否も応もない私権の強制圧力によって無理やり「集団」に封じ込められてきた人々の、「集団離れ」現象だとも言える。実際、離婚や未婚の増加も、フリーターや引き篭もりの急増も、学生のキャンパス離れも、不正に対する内部告発の激増も、全ては「集団」からの離脱の動きである。
 
 
●本当は、集団に入ったのではなく、社会に出たのだ
 
 人々は、これまで人生の節目ごとに(まるで一大事業であるかの如くに)「学校に入り」「企業に入り」「家庭に入る」のだと認識させられてきた。しかし、我々はそれらの「集団」に、本当に入ったのだろうか?それは、形だけ、上辺だけのことではないだろうか。本当は、「集団」に入ったのではなく、社会に出ていったのではないだろうか。
 
 学校であれ、企業であれ、家庭であれ、「集団」に入れば、必ずその「集団」から身分(資格や肩書き)の獲得や利益の獲得という私権課題が強制的に与えられる。従って、子供や若者は自我・私権の主体となるしかない。社会が私権の獲得という目標に収束できていた時は、それでもまだ良かった。しかし、今や私権圧力は衰弱するばかりなので、何をしてももう一つ燃焼できないし、いつも何か物足りない。
 
 だが、「集団」に入ったのではなく、本当は社会に出たのだと考えれば、全く別の世界が見えてくる。本当は社会に出た(=社会の当事者になりたい)のだとすれば、「集団」を超えた人(みんな)収束の潮流や、『みんなの期待』に応えたいというやりがい志向が、私権の衰弱と同時に生起したのは当然のことであり、それは人々が社会の当事者になろうとする可能性の発現だったということになる。
 
 
●次代の活力源は、『みんな期待』に応えること
 
 「集団」から離脱するということは、「集団」の外の世界を(つまり社会を)対象化するということであり、突き詰めれば、社会の当事者になるということに他ならない。
 
 従って、「集団」から離脱した人々が、先ずは状況(みんなの意識)を掴もうとするのは、当然である。そこで、人々は答えを求めて、必然的に状況(=人々の意識)の探索過程に入ってゆくことになる。これが、答えを求めて人(集団を超えたみんな)に収束する、最先端の意識潮流である。
 
 現在、人々が心の奥で求めている本当にやりたいことは、みんなの期待に応えて反応充足を感じたいという辺りにある。おそらく次代では「出口が見えない、答えが欲しい」という『みんな期待』に応えることが、人々の一番の活力源になるだろう。
 
 その為には、答えを求めて集団から離脱した人々が、みんなで共認形成できる場と新しい認識が必要になる。
 
 
(後略)
 
※その他の参考投稿
 活力源は、脱集団の『みんな期待』に応えること [6]
 超国家・超市場論13 人類の新たな活力源=圧力源 [7]

 親和欠損は、現実の期待圧力で乗り越えられる! [8]
 

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