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日本の家庭は孤独化している

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巷で話題となった「ホームレス中学生」を読んだ事あるだろうか。
「中学生時代の田村少年が、ある日突然住む家を無くし、近所の公園に一人住むようになる超リアルストーリー。 ダンボールで飢えを凌ぎ、ハトのエサであるパンくずを拾い集めた幼き日々から、いつも遠くで見守ってくれていた母へ想いが詰まった、笑えて泣ける貧乏自叙伝。」()である。

若くしてホームレスとなったという普通では考えにくい状況と、その境遇をいま笑いながら話している本人、という画が人気となっているのだろう。
しかし、実はホームレスというものを遠い存在と考えてはいられない現状が、日本にはある。

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実は、われわれ日本人は社会の中で人づきあいが極めて悪い、あるいは社会の絆が失われている(社会的に孤立している)現状にある。
そのことを裏付けるデータを紹介する。(参照 [1]

日本は家族以外の人と社交のために全く、またはめったに付き合わない人の比率がOECD諸国の中で最も高い。

日本の社会的孤立度の高さの理由については、2つの見方が成り立つ。ひとつは、伝統的な社会の絆が戦後の経済発展の中で失われてきたが新時代に順応したコミュニティが形成されていないためとする見方、もうひとつは、社交がなくとも生活に支障が生じない経済や社会が成立しているためとする見方である。

 第1の見方は、この図を引用している広井良典「持続可能な福祉社会」2006年(ちくま新書)に見られる考え方であり、日本の近代化の中で水田稲作に起因する内向きに結束するムラ社会原理が企業社会に移されて急速な経済発展が実現できたが、近代社会を支える欧米型の社会原理(規範による社会結合)は同時導入されなかったため、「構造改革」が進み非正規雇用者が増加して、企業帰属を通じた社会の絆が失われた結果、社会全体がバラバラになってしまい、社会の閉塞感が高まるようになったとされる。

 第2の見方は、社交を通じて実現されていた社会的ニーズが市場サービスや公共サービスを通じて充たされるようになっているので取り立てて社交が必要ないという考え方である。市場が提供する娯楽に富み、治安がよく、社会が安定し、コネがなくとも職が得られ、先輩から個人的に教えてもらわなくとも研修が得られ、相互扶助に頼らずとも年金・医療・福祉の公共サービスが得られ、ゴミ処理などの公共サービスも政府に頼ることができ、社交以外の手段による情報流通が発達しているため、社会的な付き合いをしていないからといって不安になるということもないという訳である。

さらにはこのようなデータも紹介されている。(参照 [2]
 
 家族が一番大切だとする考え方が非常に強くなってきているが、これは、職場や親せき、そして地域(隣近所)とのつきあいが部分的、形式的となり、希薄化してきているのと逆比例している。核家族化と商品経済の全般的普及の中、マイホーム主義が強まるにつれて社会の絆が薄れていく状況が見てとれる。

このように、職場や地域、さらには親戚にいたるまであらゆる家族間以外の関わりをもたなくなっており、家族間のつながりのみ残っているような現状にある。そして、それと比例するように社会的孤立の度合いが高まっている。
一見家族間のつながりが深まったようにもとれるが、家族間以外の関わりが減少することで相対的に家族間の関わりが増大しただけにすぎないように思える。

伝統的な社会の絆・コミュニティの解体、さまざまなサービスの過多などの社会的要因と、家族という集団で完結した関係を好む人々の精神的要因とが相まった結果といえるだろう。
これが日本の家庭の現状だ。

このような現状の家庭が、もし一歩間違えて仕事と金がなくなったとき、一体誰がこのような家庭を支えるのだろう。というよりも、そのような家庭かどうかを誰が把握できるのだろう。
金がなくなれば、いっさいの経済サービス圏から放り出され、地縁や共同体からも省みられず、路上や公園で暮らさざるをえないのである。家族間の関わりだけで完結した家庭は快適かもしれないが、一歩間違えると・・ 奈落の底が待っている。
日本社会はこのような大きな問題をはらんでおり、ホームレスという存在を遠きものと捉えているほどの余裕はここにないのである。

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