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大正期の父親はどんな存在だったのか

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江戸から明治へと時代が変わるにつれ、日本の男たちは少しエラくなってきたようですが、大正ロマン、大正デモクラシーと呼ばれた時代はどうだったのでしょう。

デパート、カフェ、ダンスホールなどが登場し、ジャズを好むモボ、モガが闊歩する都会の様子が大正から昭和初期あたりの特徴として言われることが多いようですが、農村から都会に出てきた庶民の男女がモボ、モガになっていたとは思えません。

今回は、大正から昭和初期の頃、都会で暮らしていた庶民にスポットを当ててみます。

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●急激に増大した都市人口
・大正から昭和初期にかけて東京の人口が急激に増大したのは、工業地帯の形成関東大震災がきっかけでした。
・日露戦争の頃から盛んになっていた重化学工業は、第1次世界大戦(大正7年・1918年終結)後に飛躍的に発達し、京浜、中京、阪神、北九州の「4大工業地帯」が形成され始めました。
これらの大都市への人口集中はさらに進み、大正11年(1922年)の東京府の人口は398万人と大正7年からの4年間で約107万人も増えました。
・第1次世界大戦後に人口が急増し、サラリーマンが増えて職と住の分離が進んだため、鉄道網が郊外へと伸びはじめ、郊外住宅地の開発が進みました。
・大正12年(1923年)の関東大震災後、罹災者が郊外に移住するとともに鉄道網や郊外住宅地の開発も活発化し、市街地はますます拡大し、その後の人口増加の受け皿になりました。
・東京の人口は震災後も激増を続け、昭和3年(1928年)には500万人を突破、太平洋戦争が始まる直前の昭和15年(1940年)には735万人と、明治5年の86万人から約70年で約9倍に達しました。

●貧しかった都市庶民の生活
・急激に増大した都市人口の出所は農村でした。当時の農村は、4~5人の小家族による米作が主流で、大半を占める小作農の生活は貧しく、出稼ぎや賃労働との兼業が多く見られました。
家は長男が継ぎ、次男、三男は分家して村内に留まるか、都会に出るしかありませんでした。しかし、分家することは次第に難しくなり、村内に留まるためには、大工や左官などの職人や馬車引きや荷車引きなどをするか婿口を待つぐらいしかなく、残された道は労働者として都会に出ることでした。
・農民の大半を占めていた小作農の生活水準は低いままに留められ、労働者の賃金も低く抑えられていました。諸外国との国際競争に勝てるように工業(企業)を育成するために労働者賃金を低く抑える。そのために、労働力の出所になる農民の生活水準もギリギリの状態にするという政策が採られていたようです。
・当時の労働者家族のエンゲル係数は50%台という状況で、かなり苦しい生活でした。
(参考:リンク [1]

・明治期の都市労働者には、人足、車夫、職人など都会の雑業に携わる人々や職工、店員など様々な職業があり、住まいは借家でした。江戸時代から続く長屋と並んで、車夫や日雇い労働者の多くは木賃宿や雇主の家への住み込みなどでした。
・大正期になると、長屋や木賃宿の建替えが盛んになり世帯持ちに対応できるものに変化していきました。
木賃宿には雑居の大部屋のほかに夫婦や家族連れの貸切空間の「別間」が造られ、長屋では各戸に台所が付けられるようになりました。
関東大震災以降は、専用の便所と台所がある2間の間取りで、2戸から4戸程度の長屋へと変化し、家族の住まいとしての体裁が整えられるようになりました。長屋は、かつての、大家に統括された共同体的な居住の場から世帯単位の区分が明確な場へと変化していきました。
大正期になって、賃金労働が増え、女の内職や子どもの労賃も含めれば下層庶民もなんとか世帯形成できるようになったということを示しています。
(参考:「住まいと家族をめぐる物語」集英社新書)

●「家庭」へと向かった家族の意識
・大正期は都市居住者の中にサラリーマンという新しい中間層が生まれた時期であり、古い「家」制度から抜け出て近代的な「家庭」へと向かいはじめていました。
女性は「家に嫁ぐ存在」から「人に嫁ぐ存在」へと変わるべき。家庭は夫婦相い和し、一家団欒の場であるべしといったことが唱えられていました。
女性向けの啓蒙誌などでこのような新しい家族像が提起され、上流の層に広がりはじめていました。
・一方、都市下層と呼ばれた庶民にも大きな影響を与えたのは「主婦の友」などの商業誌で、すれすれの貧しい生活を送る女性たちに、中流の生活や家庭文化への憧れを抱かせたようです。

●さて、以上のような状況の中で、家族の長たる男たちの存在はどうなっていたのでしょう。

・明治期に作られた家制度の下では、上流階級であるほど父権は大きかったと考えられます。
家の全ての財産権は父親にあり、家族の生計は父親に委ねられていたから当然だったとも言えます。

・一方、家族全員の働きが無いと生活もままならない下層庶民の家庭ではどうだったか。
財産権が父親にあるといっても財産そのものがほとんど無く、家計も父親だけではままならず、妻の内職や子どもの労働も必要だった状況では父権も小さくならざるを得なかったと思われます。

当時の下層庶民の生活を描いた映画などに出てくる夫婦喧嘩(いまや死語かもしれない)などはそのような状況を示していると思います。
また、所帯を持てることは下層の男たちにとっての希望であり、そのために良い稼ぎを得ることが目標になっていたと思われます。

1924年に新聞に連載された「主権妻権」という小説では、家族本位で夫婦と子どもとの生活の中でのささやかな幸せに暮らし、私生活を重視するサラリーマン家族を登場させていました。中流庶民の生活感覚や世相を敏感に写し取っていたもののようです。

もうひとつヒントになるのが「ちゃぶ台」の普及。昭和初期に一気に普及したもので、まさに家族団欒を象徴する存在でした。
なんとなく平等を示している丸いちゃぶ台の中で、なんとか父親の位置が定まっている、といった様子は、当時の下層庶民の父親の存在を象徴するものでもあるように見えます。

byわっと

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