- 感謝の心を育むには - http://web.kansya.jp.net/blog -

「家」から「家庭」へ 『住まい』から時代を読み解く その2

img19_dai4.jpg
写真は ここ [1] からお借りしました。

東京では、
職住分離による核家族化が推し進められたのは、奇しくも、関東大震災という外圧。
そして、都市への人口流入による。

以下、引用元は「住まい」と「家庭」思想 ―― 明治後半から大正期を中心として ―― [2]
より、

大正12年(1923年)、関東は大震災に見舞われる。未曾有の住宅倒壊と炎上によって、江戸的名残りの大半は消えて住宅需要が急増する。都心の土地価格が高騰し、更なる郊外への外延化、職住分離の核家族化が一挙に推し進められた。震災の義援金を基金に、その翌年に半官半民で「同潤会」が設立され、昭和初期には新聞社主催の住宅設計コンペや図案集出版が相次ぐなど、必要に迫られて住宅建設熱が盛行した。

続きを読む前にポチ・ポチ応援お願いします。

関東大震災の少し前には、都市人口の増大による住宅事情の改善に国家が乗り込み推進した。

大正期には「生活改良会」のほかにも、住宅改良を趣旨とする組織の設立が相次いだが、特記すべきは大正9年設立の文部省管轄の「生活改善同盟会」で、即ち、民間主導で進んできた生活改良の動きに、国家が乗り出してきた事である。設立の直接的ひきがねとなったのは、不況と社会不安であった。第1次大戦中の好景気は、直後にインフレ現象を招き、米価が暴騰して大正7年の米騒動につながった。 生活の合理化や節約を推進することは、もはや家庭内問題でなく、国家行政上の政治的問題となっていた。急激な都市膨張に見合わない住宅数不足も深刻化していた上に、細民の不良住宅問題も加わって、すでに都市問題=住宅問題といわれる現状だった。人々の住居水準を高め、最小限の個人住宅を規格化することは今や国家問題であり、「生活改善同盟会」はこうした政府の住宅行政のいわば実践部隊なのであった。

具体的に東京の都市人口の推移を見てみると
■都市人口推移(東京):参照リンク [3]
1878年(明治10年)  671,335人
1890年(明治22年) 1,155,290人
1920年(大正 9年) 2,173,201人
1950年(昭和25年) 5,385,071人
2000年(平成10年) 8,134,688人

工業化の推進・膨大な都市への人口流入は核家族化を生み出したが、「住まい」に個的領域=プライバシーを求める状況ではなかった。

大正期の熱病のような洋風憧憬と、それが内包していた「生活」や「家庭」に対する内側からのまなざしは、軍靴の響きが大きくなるにつれて片隅に追いやられる。生活運動で高まりを見せた住意識も充分に進展することなく、昭和の敗戦まで停滞し、ひいては戦後高度成長期に《世界一のGNPとウサギ小屋》と皮肉られる、ねじれた「住」の近代化現象をもつに至るのである。

と書かれているように、西洋思想、西洋住宅が入り込み、一部住宅の改善が成されたものに留まっていたと言えよう。また、“プライバシー”という言葉が普及しだしたのが1960年以降ということを考えると、大部分の家庭(家屋)においては、その1 [4]でも述べたような個人主義思想に基づくプライバシーの確保といったものは、第二次世界大戦後のアメリカ(GHQ)の思想支配以降によるもので、現在、問題にしている密室家庭に繋がる核家族の源泉は、戦後の高度成長期、都市への人口流入以降のものと考えられる。

また、核家族の割合を具体的な数字でみてみると
■普通世帯に占める核家族の割合(全国):参照リンク [5]
1920年 54.0%
1950年 59.6%
1960年~1995年 60.2~63.9%(ピークは1975年の63.9%)
2000年 60.2%
※データーが無いので正確には解からないが、1920年以前の明治、江戸中期以降も分家、都市へ流入などを考えると核家族世帯は50%は超えていたと思われる。

核家族の割合は、大正期~現在とそれ程大きな違いがないことが伺える。
大きな違いは、出生児数で、
1895年以前では、子供がいない妻が1割を超え
1915年以前では、4人以上出生した妻が6割を超え、平均出生児数も4人を越えていたものが、
それ以降、二人台となっている。

核家族を2世代で構成されるといった一般的な定義で捉えると、戦後に限らず、戦前そして、それ以前の江戸時代でも当たり前のように見られる家族構成であり、戦前の分家や職能分離による核家族化は、家族構成としては核家族であったかもしれないが、精神面や家族間の繋がりは、深かったと考えられます
それは、戦後の都市への流入、高度成長期の初期の頃の近所付き合いからも伺えます。

密室家庭の変遷① 1950年代 [6] より

実際、高度成長期に地方から都会に行った人たちは、地方で生まれ育ち、戦前教育の一端を受けたことがある人たちです。
この人たちは都会で核家族を持ち始めましたが、暮らしぶりは田舎の様子に近いもので、味噌しょうゆを貸し借りしたり、帰省したときの故郷のお土産を互いに分け合ったりと、近所とのつながりはけっこう濃いものがありました。
なによりも、高度経済成長の担い手として、日々一生懸命に働き、家庭だけに収束するような生き方はあり得ませんでした

[7] [8] [9]