- 感謝の心を育むには - http://web.kansya.jp.net/blog -

学校ってどうなってるの?69~「学力低下をどうする?!」第三弾!

既に 第一弾 [1]第二弾 [2] をこのブログでも発表してきた「学力低下をどうする?!」ですが、改良に改良を重ね、路上のなんでや露店 [3]でも試しつつ・・・3ヶ月くらいかかりましたが、ようやく最終版が完成しました!

この「学力低下をどうする?!」は、路上の「なんでや露店」でも関心が高く、主に実際先生をやられている方や目指している方、あるいはまさに「ゆとり教育」 [4] の当事者である学生さん(中学生~大学生まで)、そして、この問題を強く危惧されている方々が聞いてこられます。
そして、この問題の原因として、明治開国以降の「市場拡大」の歴史 があるということに驚かれる方も少なくありません。

では、全体の図解と解説です。

%E5%AD%A6%E5%8A%9B%E2%91%A4Ver3-3%EF%BE%8C%EF%BE%9E%EF%BE%9B%EF%BD%B8%EF%BE%9E%E7%94%A8%E6%A8%AA.jpg


拡大版はここをクリック! [5]

■学力低下とは? 

学力低下現象を色々挙げてみて気づくこと・・・・それは、この問題が単に試験の点数が取れないといったレベルの話しではなく、言語能力(日本語力)の低下を表わしており、また、言語能力を支える「観念能力」(考える力) や、ものごとを吸収し学ぶ原点とも言うべき「同化能力」(真似る力)の衰退現象であることがわかる。

⇒これら人類固有の能力を駆使することで集団や社会を形成し、様々な外圧に適応してきた人類にとって、このことは、一種の退化現象・・・“人でなくなる”ほどヤバイ問題であると言うことができる。 

■なんで? 

まずいつから言語能力の衰退がはじまったか?だが、いわゆる「ゆとり教育」からではなく、実は江戸から明治への転換期を境に戦前まで、敗戦を境に戦後、そして、1977年に始めて提唱されたゆとり教育・・・の概ね3段階であることがわかる。
(“学問のススメ”をすらすら暗誦していた明治初期の小学生、戦中の10代の特攻隊員の遺言などから当時の言語能力の高さを伺い知ることができる。)

ではなぜ、明治以降衰退したのか?

そもそも明治維新とは、高度に工業化された欧米列強の力を見せ付けられ、もはや鎖国している場合ではない、彼らに追いつかなければ(清国のように)植民地化されてしまう(「脱亜入欧」「富国強兵」「殖産興業」)・・・という強力な外圧下において成されたものであるが、欧米側から見れば、日本を新たな市場として開国させるという意図があり、結果、明治以降現在に至る歴史とは、「市場拡大」の歴史 と言え、その過程において言語能力はことごとく衰退してしまった・・・。

その要因は大きくは3つある。

①活字から映像への移行 

市場を拡大させるには、次々と新たな商品の魅力(快適性、利便性など)を伝える必要がある。(例えば、「三種の神器」が揃ったら、「新三種の神器」)そこではいかに「分かり易いか?」がポイントとなり、威力を発揮したのが「映像」の登場だ。(映画、テレビetc.)例えばフランス料理を日本人に食べさせようとしたら、その美味しさや魅力を活字で伝えるよりも、実際に食べている映像を見せる方が魅力を伝えやすいし、欲望を喚起させることができる。

ところが、恐ろしいことい、映像は一方的に頭に入ってきて、直接感覚(本能)を刺激してくる。つまり、こちらから理解しようと頭を使って考えることも、対象に同化することも必要ないのだ!
結果、映像化の歴史は、人々の思考能力や同化能力を奪っていってしまった。(ex.「テレビ脳」)

この映像化の流れは、教科書においても同様であり、江戸時代の「往来物」(庶民の寺子屋で用いられ、草書で書かれた)や「論語」(武士の藩校で用いられ、漢文で書かれた)といった活字主体の頭を使わせる教科書が、明治以降文章から単語主体へ、活字から映像主体へと急激に転換し、現在に至っている。

②同化圧力の衰弱 

人々はなぜ、あれほど難しい教科書に同化できたのか?それは、強い「同化圧力」が存在していたから。
江戸時代においては、士農工商の身分制度が機能しており、また、都市から農村まで、人々は本源的な集団(母系制)の中で暮らしていた。そして、身分制度や本源集団は、各々序列規範や集団規範を持っており、そこから生ずる「規範圧力」が同化圧力として強く作用していた。

⇒しかし、明治に入り四民平等から序列規範は解体され、地租改正をはじめとして集団が解体された(父系制の「家」制度に転換)結果、規範圧力=同化圧力は衰退してしまった。

代って、明治以降、市場社会に突入すると、今度は「貧困の圧力」 が登場した。市場社会において集団を失った人々は、他者との私権闘争に明け暮れており、それに敗れれば(会社をクビになれば)、直ちに収入を失い飢え死にする恐れがある。つまり、こうした飢えの圧力=貧困の圧力が同化圧力として作用し、人々は寝る暇も惜しんで勉学に取り組んだ。

⇒しかし、1970年頃、市場拡大により豊かさが実現されると、貧困の圧力も瞬く間に衰弱・・・こうして規範圧力も貧困の圧力も失ったまま、勉強意欲どころか活力そのものを失ってしまっているのが現在の姿だ。

③同化対象の喪失 

明治以降は、日本的なるものを捨て、欧米の価値観の導入が進んだ。その中核にあるのが「個人主義思想」。ところが、個人主義とは醜い私権闘争を美化、正当化するための欺瞞観念に過ぎず、その本質は「自分が原点」であるということ。しかし、同化とはあくまでも対象あってである以上、自分が原点という狂った思想が浸透するにつれ、人々は同化対象を失い、同化能力を衰退されてしまった。

◎ここまで見てきてわかることは、市場化や近代化と言えば、あたかも進歩を意味しているようだが、実は人間の能力はとことん衰退しており、我々は市場の奴隷に仕向けられてきたという恐るべき事実。
 

■どうする? 

まず、同化能力を回復する実現基盤は既に整っている。・・・つまり、豊かさを実現した先進国にとって、市場拡大は既にストップしており、今や映像離れ⇒活字収束が顕在化しつつあると同時に、事実が知りたい、勉強したい・・・といった意識が生じはじめている。

そして、答えはいかにして同化能力を取り戻すか?にある。

まず、失われた同化対象を回復するために重要なことは、「周りが原点」であるという根本的な認識。今や「自分が原点」の自己中的発想では活力も出ないし徐々に白い目圧力が加わってきている。

また、貧困に代る新たな同化圧力・・・「期待圧力」は既に存在しているという事実。今や、周りの期待に応えることが、最大の活力源となりつつある。

更に、失われた同化能力を再生するには、「なんで思考」 が有効。単なる知識の羅列では何の役にも立たない・・・「なんで?なんで?」とひたすら物事や事象の背後の構造を追求することではじめて、対象と同化する能力が身につくし、何より様々な問題に対する答えを出していけるようになる。

因みに、これは、人類の本来の思考様式を表わしていると言える・・・思考とは本来“自分”の頭の中で完結するものではなく、皆の表情を見、話し、声を聞く・・・「やりとり」の中で成されるものであり、「やりとり」を通じて思考回路が形成されたと言うことができる。(「学び合い」 [6] 「音読」 [7] 「聴写」などが有効なのは、そのためであると思われる。)

最後に、「周り」のみんなからの「期待圧力」を受け、みんなでひたすら「なんで思考」を繰り返す。この地道な反復繰り返しによって、人類の歴史構造や意識構造を解明した 「新理論=構造認識」が構築されていく。

⇒この「構造認識」こそが、もはやガタガタになり崩壊寸前の市場社会に対し、今後「どうする?」といった答えを出していく武器となると同時に、かつての「論語」に代って誰もが同化できる新しい教科書になっていくことが期待される。 

[8] [9] [10]