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明治時代の結婚観・家族観ってどんなん?

明治時代はかなり過酷な時代だったことがよく解かりました。
今回は、こんな中、庶民の結婚観、家族観、ってな辺りがどんな物だったか?追求してみます。

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最近はこんな [1]布団も売ってます。ワイドでキングなサイズでゆったり、あったかって事ですがどう見ても窮屈。でも家族ってこんなにしても大切にしたのでしょうか?

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まずは、人口推移のおさらいです。
グラフは「コチラ」 [2]から

戦乱の時代が終わり、江戸前期には安定と新田開発により人口が急増。その後新田開発が限界に至り、人口が一定に推移する。
この江戸中期以降の停滞期では、農村では間引きなどの人口調整がなされ、江戸など都市部へ繰り出した次男三男は、江戸などの「蟻地獄都市」と呼ばる、過酷な生活を強いられていた。

この時代の不全はかなりの物だったと想定される。

明治時代に入って、工業化が始まる。西洋技術+資本?が、工業化を進めると、そこに「労働者需要」が発生。これが、それまでの人口抑制を強いられた農村の人達には活路に見え、人口が都市に集中し、多量な労働人口を創出する。
ところが、世界的に後発である日本の工業は、国際社会で洗礼を受けるのは当然で、安価な労働力で勝負するしかない(今の中国と同じ状態です)。
この様な社会状況が、先のkanekiエントリーの「女工」を代表する、過酷な労働者を生み出した。

明治時代の、100年間で人口が3倍になる驚異的な人口増は、このようにして起こったのです。

ここで、疑問が湧いてきます、
この時代日本人は「食えていたのか?」

欧米からの産業革命輸入により、工業化が進んだとは言え、何を食っていたのか?工業生産では食料は生産できない????
工業化と同時にもたらされた農耕機器の近代化による生産性アップ、政府による食料輸入政策(この時代政府はかなりの輸入船を欧米から買っている)、北海道開拓などなど、手を尽くしていたようですが、100年で3倍のスピードには間に合わなかった。

江戸時代、日本鎖国をしていたから当然自給自足だった。人口と食糧生産は釣り合っていた。明治時代になって富国強兵政策のもと、産めよ増やせよのスローガンの下人口が増大し始めた。食糧増産も図られたが、日本は食料不足に陥っていく。
 意図してやったかどうかは分からないが、日本からの移民の増大、台湾朝鮮半島での食糧増産と食料移入、大陸への移住がおこり、食料バランスが図られていた。

ブログ「飯大蔵の言いたい事」 [3]

最終的には、海外への移民、そして、戦争動機へと繋がっていく。
世界各地の日系の方々はこの時代を表している。

明治21(1888)年の人口調査によれば、新潟県の人口は166万人で、2位の兵庫県の151万人、3位の愛知県144万人を抑えて堂々のトップ! 東京はこの年、135万人で第4位に甘んじております。続く明治26(1893)年の調査でも新潟県が171万人で1位の座を堅守。なぜ新潟が人口日本一?とつい考えてしまいます。
記事によれば、「江戸時代、稲作に適した気候に恵まれ、大阪と北海道を結ぶ北前船航路のあった日本海側の方が太平洋側より豊かな傾向があった(鬼頭宏・上智大学教授による)」ということ。そうか、そう聞くと納得できます。しかし、かつて「裏日本」と呼ばれていた「日本海側」が日本の産業を支えていた時代もあったのです。ましてや米どころ 新潟県は、「それだけの人口を養う力があった」ということですね。

ブログ「カクレマショウ」 [4]

「米どころが人口を養う力があった」と言う事は、逆にそのほかの地域は「養うだけの食料調達能力」が無かったわけで、開拓地「北海道」は新天地として相当引力を持っていたようです。

こんな中で、庶民の暮らし、家族、はどんな様子だったのでしょうか?

もともと明治の前、徳川時代は平民には氏の使用は許されてはいませんでした。ところが明治3年太政官布告により、氏の使用が許されるようになります。そこで平民は「わーい」と喜んで氏を使うようになったかというと、そうでもなかったようです。むしろ、懐疑的だったとか。
しかし、当時国民は明治新政府を信用しておらず、苗字を附けたらそれだけ税金を課せられるのではないかと警戒し、なかなか苗字を名乗ろうとしませんでした。そこで明治政府は、1974(明治7)年の佐賀の乱を力で鎮圧するなど強権政府であることを誇示した上で、この年苗字の義務化を断行しました(三越コミュニティサロン 愛と感動のデイリー・ブログ より)。

ブログ「夫婦別姓を待つ身の溜息」 [5]より

結婚して幸せな家庭・・・・などと空想している場合ではなかった。
「苗字もいらん」ただひたすらに、食うには?生きていくには?と考えていたのでしょう。

この時代の婚姻制度は?と言うか実態は?

日本に一夫一婦の考えがもたらされたのは江戸時代、キリスト教が伝来した時といわれます。キリスト教では貞操観念を重要視しており、婚姻の形態は一夫一婦が基本とされています。宣教師たちはキリストの教えのひとつとして、一夫一婦を日本に根付かせようとしましたが、その考えはすぐには広まらなかったのです。江戸時代には妻の他に妾を囲うことは、上流武士社会や富裕な町人層では普通に行われていました。
こうしたいわゆる蓄妾制は明治時代に入ってからも続き、明治3年に制定された「新律綱領」では妻と妾を同等の二親等とすると定められたのです。これは妻であれ、妾であれ、女性の権利を同等に守るといった考えに基づいたものではなく、背景には家制度がありました。つまり、家を存続させるためには、妾も妻と同等の地位に押し上げ、跡取りを産んでもらおうという事情が潜んでいたのです。

「明治の初めまで日本も一夫多妻制だった!?」 [6]より

あくまでも、富国強兵政策、一本槍ってな感じです。
そんな中、西洋かぶれの近代思想家達は????

文部大臣・森有礼の契約結婚
とはいえ、一方では、ヨーロッパの列強に追いつけ追い越せで国造りに邁進している折り、一夫多妻は人倫にもとると考える人たちもいて、一夫多妻はやめようという動きも出てきました。その急先鋒となったのが福沢諭吉や森有礼です。
明治時代に初代文部大臣を務めた森有礼は「妻妾論」で一夫一婦制や男女同権を説いたことでも知られています。彼は妻ツネと結婚する際に「契約結婚式」を行いました。この結婚式でふたりは福沢諭吉を証人とし、3か条にわたる婚姻の約束事を定めた契約書を交わしたのです。また、ツネはこの時薄いグレーのドレス姿で結婚式に臨んだといわれ、これが日本のウエディングドレス第1号といわれています。
ちなみに、この契約結婚はわずか11年で終わりを迎えました。原因はイギリス赴任中にツネがイギリス人と不貞したと噂されたこと。ふたりの間に生まれた3番目の子供だけが森家に引き取られていないことから、3番目の子供はイギリス人との子供だとの話も……。ですが、森本貞子氏の『秋霖譜』によれば、ツネの義弟が明治政府転覆のクーデターに関わったためというのが、本当の理由のようです。

「明治の初めまで日本も一夫多妻制だった!?」 [6]より

近代思想化の先生もこんな有様です。
(ウエディングドレスがねずみ色って時点で????ですが)
明治時代は離婚率50%の時代とも言われています。
富国強兵政策→人口急増→究極の貧困→都市への人口集中→生きていくことが第一課題→恋愛・結婚・家族どころではない。
時代だったようです。

核家族に通じる、「家族愛」「家族の絆」などといった観念は、まだまだ先の話。
戦後特需の大正時代、そして第二次世界大戦後のGHQ支配、この辺りまでくだらなければこの様な意識は定着しなかった。
ほんの100年前ですが、明治時代は「結婚」という観念さえ、庶民には浸透していなかったのかもしれません。恋愛、核家族なんてましてやですね。
引き続き、追求していきます・・・・「大正ロマン」ってな辺りでしょうかね?お楽しみに!!

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