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女性雑誌からみる 明治・大正期の女性

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写真は ここ [1] からお借りしました。

明治から戦後にかけて、日本は激動の時代を経てきた。
と前回の記事 『平塚らいてう から時代を読み解く』 [2] にて述べましたが、もう少し、具体的に見ていきましょう。

外圧=他国との戦争は、国民を巻き込み、文明開花による資本主義経済化(市場の流入)は、私権の獲得の可能性が開かれはしたものの、恩恵を受けた人は極一握りの人であって、多くの人は私権の獲得というよりも生存圧力(貧困の圧力)を脱するために、働き詰めであった。そして、その売上の殆どは、生産者の手には残らずに、莫大な資金が必要とされる戦争に費やされたのではないかと思います。

明治政府がとった政策「富国強兵」「殖産興業」は、女性に何を求め、何を課してきたのだろうか?

今回は、女性雑誌、とりわけ『女学雑誌』に掲載された記事を中心に見ていきたいと思います。

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現在の“女性開放”・“男女同権”思想に通じる内容が多く含まれていて、今後の参考にもなるので、長くなりますが、一部抜粋・編集にとどめ、掲載したいと思います。

女性と仕事の未来館 明治・大正における女性の仕事 -女性雑誌からみる- [3]

近代における女性労働が生まれた背景

版籍奉還・・・全国の各藩主がその土地<版>と人民<籍>とを朝廷に返還
封建的身分制度が崩壊・・・華族・士族・平民という新しい身分制度に再編成
地租改正・・・納税制度は、米による物納から、土地の価値に見合った税金を土地所有者から徴収
株仲間の崩壊・・・江戸時代幕府諸藩に営業権を公認された商人・職人の同業者組合を廃止
秩禄処分・・・・武士身分には一時金を与え、それまで受け取っていた俸禄(秩禄)〔給与〕を打ち切る

このように多くの人が失業や賃金働者になることを余儀なくされ、急激な資本主義経済化により激しく変動する経済が、生活を直撃。 
こうしたなか、明治政府は国力を充実させるために、富国強兵により、産業の育成・軍備の強化を進めていきます。女性に仕事を持つことを勧めたり、女性のおかれた不条理な現状を助けようとする女性雑誌の記事にも、根本には、こうした考えがありました。

★女性雑誌からみる女性の仕事
婦女改良
女性雑誌が掲げる主旨に、婦女改良があります。婦女改良は、近世において『女大学』などに示された「劣った性」の呪縛から女性を解き放ち、女性・男性ともに啓蒙を図るものです。本格的な女性雑誌の始まりといわれる『女学雑誌』創刊号(明治18<1885>年7月20日)は、巌本善治による「発行の主旨」で「欧米の女性の持っている権利と日本の女性の女徳を合わせて完全な模範を創ることをこの雑誌から呼びかけ、日本の女性が女権と女徳を合わせ持ち、幸せだと言える存在にすることを応援するのが、第一の希望である。」とうたっています。

■新しい家庭づくり
(明治26<1893> 年)「一家の生活を主人だけに頼るのでなく、妻、妻以外の老幼も分相応の内職(仕事)をするべきである。その結果、国の富を生むことになる。また、一家の生活の足しにもなり、そこから幸福が生まれる。」と労働のもつ役割を述べ、
(明治28<1895> 年)「男子の保護や庇護の下に、閑居逸楽を夢見る婦人は哀れむべき」存在であると述べています。

■女性の経済的自立
 婦女改良や新しい家庭を作るに際して、女性の自立が大切であり、そのため「経済的自立」が必要だという意見がとりあげられました。
(明治19<1886>年)「日本の女性はなぜこれほど軽んじられるのか、それは、一家を支える夫が亡くなったりすれば、路頭に迷うか、親戚のやっかい者になるかしかない、自分で食べていけるだけの技芸が無いからだ。今の日本の人口は3千7百万人程で、男女半分とすると、日本のために働いている者(男)は1千9百万人ほどで、その1人1人が背中にやっかい者(女)を背負っている。」と嘆き、女性も独立できるような技術を持つことをすすめています。
(明治20<1887>年)「人の権力の裏づけになっていくのは、金力(経済力)である。女性の地位が上がらないのは、財産としての経済力を持っていないからで、これを打破するには、まず女性(妻)が経済力を持つことが大事である。第1に女性自身に財産を得る力を持つために職業を持つ事。第2に女性が財産を持つことができる法律をつくる事。そして、女性が自身で主張できるような、文筆力や訴える場所をつくるべき。」と述べています。

■家事労働への評価の主張
 近年アン・ペイドワーク論など、家事労働に対する報酬の可否が議論されていますが、家事労働への経済的評価を求める意見が、すでにこの時代に見られることは特筆すべきことです。
(明治21<1888>年)「夫は外に働きに行き月給または日給を得ているが、妻はその間、家事をこなし、育児をし、その他の家の雑務を一手に引受けている。この様に役割分担をして、一家は成り立っているのだから、夫の稼いだ財産は半分は妻のものであって、当然ではないか。」と財産中分を主張しています。しかし、当時、この考え方は受け入れられず、豊寿は周囲からのバッシングを受け、東京婦人矯風会書記という立場を追われていきます。以後、豊寿のこの様な発言は出てこなくなります。豊寿がこの時期こう発言したのは、当時、議論されていた民法の制定の動きが背景にあると考えられます。民法親族編・相続編は明治31年に制定されますが、これにより、妻は婚姻により夫の家に入り、法的無能力者とされました。「妾」(妻以外の女の存在)は黙認され、相続に際して、庶子男子の権利が、正当な結婚による女子より勝るといった事態も生じました。女性団体などが、一夫一婦制を主張しましたが、第二次大戦後になるまで実りませんでした。

■職業、内職の紹介
  家庭を取り巻くインフレや恐慌などの経済変動から、女性も収入をえる必要が生じましたが、女性が就業できる職業はまだ限られていました。職業の紹介記事を掲載したり、中には斡旋をする雑誌も現れました。
(明治21<1888>年)「交詢案内」を設け、職業紹介と仲介を始めています。また、家事が今以上に手間のかかった当時、仕事と家庭を両立することは容易ではなく、内職も紹介されました。

■女性労働の特徴
 女性労働は、男性のように一家の家計を担う労働ではなく、家計補助でしかないと考えられていたため、女性労働者の評価(賃金)は男性にくらべて非常に低いものでした。しかし、男性と同等の働きをするので、経済状態が悪くなると男性から女性に切り替えられることも、しばしばでした。男性1人分で、女性が2~3人雇える。女性労働者は年齢が若い、或いは、幼い者が多く、賃金その他の苦情が少ないことも雇用者には利点だったようです。女性雑誌もこの点を指摘しています。
(明治32<1899>年)では、鉄兵工廠と女工について「男工の賃金高く、先般より力役以外は女工を用い、女工は賃金安く、緻密、賃銭其の他の苦情が少ない。」と女子雇用の雇用者にとっての利点が報告されています。

■工女の状況報告
 当時、農村の生活は苦しく、若い女性たちは、工場などに働きにいきました。過酷な労働条件、衛生の悪い環境の中で、工女たちの多くが、年季があける前に病気(結核)になり農村に帰されたり、或いは、死亡するものが現れました。病気(結核)は工場内で拡がり、帰郷した工女から農村にも拡がり、全国に蔓延していきました。(当時、結核は国民病と言われました。)明治30<1897>年代に入ると、各地の工場でのこうした過酷な状況が露見し、記事に取り上げられます。女工の労働状態や労働現場の悲惨な状態が次第に広く知られるようになり、労働者を護ろうとする動きが始まります。

明治44年公布、大正5年に工場法が施行されました。これにより最低就業年齢や、就業時間の上限、危険作業や深夜業の禁止などが規定されましたが、抜け道も多く、実情はあまり改善されませんでした
(大正8<1919>年)自ら工女として紡績工場で働いた時の体験談を掲載しています。そこでは、過酷な労働条件のなか、人間としての自由のない悲惨な状態がつぶさに語られています

“女工”さんについては、さらに詳しく、カネキチ 君が記事にしてくれます。

虐げられた女性の姿しか浮かんでこない。また、家庭や・家庭生活が見えてこない。
女性の仕事に関連した記事を中心に扱われているからだけではなそうである。明治の初期に資本主義が導入され、お金を得るため(だけ)の生活に追い込まれ、明治の中期以降は、10年ごとに戦争が繰り広げられ、せっかく生み育てた子供は、余儀無く戦争に駆りだされる。お国の為とは言え、死にに行かせるために子供もを生み育てるというかつて無い状況を生み出した。どんな気持ちであったのだろうか?

市場の拡大・戦争によって、かつての、共同性や本源性、そして男女の役割も根こそぎ破壊されていったのではないでしょうか?

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