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学校ってどうなってるの?68~「学び合い」への取り組み

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画像は学校に新しい風を! [1]さん より、お借りしました。

日経新聞より、「学び合い」についての記事を紹介します。

「学び合い」と呼ばれる取り組みが小中学校で広がっている。教員が一方的に教えるのでなく、分からない点を子供同士が教えあうことを全面的に採り入れた授業だ。机を向かい合わせ、分かる子が自由に歩き回って分からない子に教えるなど教室の雰囲気も変わる。学習を投げ出しがちな子を授業に引き込む効果があるという。

・教員はつなぎ役
(中略)学び合い学習はこの十年ほどで広がってきた取り組み。授業の中身が分からない場合、子供は原則として教員ではななく、分かる同級生から教わる。教員は初めから正答を告げず、議論のつなぎ役に徹する。一斉授業ではおいていかれがちな勉強の苦手な子を、子供たち自身の力で授業に引き込むのが狙いだ。(中略)

・自発性が前提に
七日午後、早稲田大学本庄キャンパスの早稲田リサーチパークの小ホール。学び合いを実践する教員が全国から集まり、研究発表会が開かれれた。
(中略)
同県内の公立小で、二年生の担任をしている男性教諭は、教科書の練習問題や宿題のマル付けを子供同士にやらせる取り組みを発表。教師用指導書を教壇に置き、児童はそれを見ながら採点し合うのだという。
採点が終わったノートを集めて中身をみると、点数の横に「がんばったね」「一人でもできるようになったん」などと児童が互いに感想を書き込んでいた。うまく解けなかった子には「がんばって自分でできるようになってね」と励ますコメントも。
学び合い学習の印象を「前より分かるようになり、今は自分が教えている。クラス全員が分かるようにしたい。」と作文に書いた児童もいた。
研究会では、「子供たちが教え合うのを我慢できず、自分が教えたくなってしまう」などの本音も聞かれた。ある女性教諭は「テストの平均点を上げたいと思い、できない子についつい個別指導をしてしまう。学び合いで成果が上がるのを待ちきれない。」と漏らす。
ただ、学び合いは子供の自発性が前提。教師が口を挟むと、子供が指示を待つようになり、効果が損なわれるという。研究会で取り組みを発表した教員からは「テストの点が上がらず内心焦っても、それを表に出さず次を待つ気持ちが重要ではないか。」といった意見がでていた。

・クラスを対象に難題の設定が鍵
「教科書のこのページをクラス全員が理解しよう。」「来週のテストでクラス全員が八十点以上取れるようにしよう」上越教育大の西川教授によると、学び合いではこうした全員が対象の目標設定が鍵という。「全員ができるように、と求め続けると、子供が『やってやろう』とやる気を出す」と話す。
教員にはなかなか本音を言わない子でも、子供同士なら率直に分からない点を話せて、自分たちのペースで教え合えるなどの利点もある。西川教授は「大人の教員一人よりも三十人集まった子供の方が有能」とまで言い切る。
注意すべきは課題のレベルを下げないこと。できる子が簡単に解いてしまい、時間をもてあますようでは効果が下がる。あえて難しい課題を出して全体で取り組ませることが、考える力の向上につながるようだ。また子供の自由度が高くなるだけに、教室全体に目を配る集中力が教員には必要。単純な放任や、議論の大きな脱線を避けるように「流れを読んで、子供の様々な発言を堂扱うか、常に考え続けないといけない」(中条中の代島教諭)という。

なんだか可能性ありそう~ ただ、うまくいかせるにも何かコツがありそう。そもそも「学び合い」の可能性とはどのあたりにあるのでしょうか?

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子供に思考させる「学び合い」という新たな授業形態 [2]
サロンに参加されている小学校の先生が独自で実践されている授業の方法が、とても次代の意識潮流にピッタリなので紹介します。

それは「学び合い」という授業形態。
その方は潜在思念(直感)で自ら実践していたそうですが、実際には上越教育大学の西川純教授が冊子にまとめたものがあったので、それを参考にしながら、話を聞きました。

「学び合い」とは、一斉授業と違いグループになり、一つのテーマを自分達で追求していく授業だそうです。
詰め込み教育ではなく「思考させる」ことが目的であり、「なんで思考」で新たな課題が発掘され、皆で答えを作り出す。
まさに、現代の子供たちが欲している課題そのものだと思います。

そこでの利点は、大きく2つ。
①みんなで一つのことを考えることで仲間意識が生まれる。
②一人一人の意見は結構あいまい。そこに他の人から「なんでそう思ったの?」など質問が入ることで、自分でもなんとなくだった意見に対して「なんでだろう?」を考え出す。その過程で、自分でも気付かなかったことが言葉化され、鮮明になる。
→ここで重要なのが、あいまいな意見に対して先生が「それってこういうことだよね」とまとめてしまわないこと!それじゃ、先生の意見になってしまう。(=思考停止してしまう。)

具体的には、課題を出し、子供たちにグループごとに追求させて、発表させる。中には茶化した意見を言う子供もいるらしいが、それも受け入れ黒板にみんなから出た意見を書いていく。その中で、どれが正しいか子供たちから意見が出るが、自然と茶化したものには「ちがう」とまっとうな判断が下るそうです。

そして追求過程では、先生が教えるのではなく、わかる子が出来ない子を導いたり、出来る子が真剣に課題に向かう姿を見て、みんながまねするようになったりという連鎖が発生するそうです!

最後に、その先生が言っていたのが「一斉授業でうまくいかない先生がこの方法でうまくいくことはありえない」。
一見理想的に感じる授業形態だが、「課題設定」が命なのである。課題設定があいまいなのに、マニュアルだけ頭で捉えて授業に望むと、子供たちはなにを追求したらいいのかわからなくなり、勉強そのものがいやになってしまう。・・・・・・(後略)

「学びあい」も旧観念から脱却する必要がある。 [3]
この前のサロンで、「学び合い」を授業に取り入れているW先生から「学びあい」の短所についても聞く機会があった。クラス全員を一定のレベルに持っていくのには適しているが、このやり方では授業に「深み」がでないとのこと。

生徒達は、教師に何か新しい視点や気づきを与えてくれることを期待している。「学びあい」では子供達自身がそのような役割を担うことができるとされているが、それではどうしても深みがないらしい。

実際、彼に見せて貰った授業のビデオでは、確かに発言が非常に生き生きとしていると感じられることがある一方、また別の授業では、子供同士のやり取りではなかなか収束しない、前に進まない、その結果発言がバラバラにになり、どんどん浅くなっていく、といった印象の時もあった。(特に国語の授業。)このような時はやはり、教師の(時に強引でも)指導する力が必要だ。

「学びあい」には、古い授業のやり方に対する過剰な否定があるのではないかと思われる。(序列関係に基づいた)一斉授業を否定するあまり、子供同士の主体的な共認形成を過大評価していると思われる。

新時代の共認原理にもとづいた授業は、当然、教師も含めて共認空間を形成する。どんな共認空間においても経験のあるもの、認識力の高いものが引張るというのは、当たり前といえば当たりまえだ。(もちろん、古い先生=生徒関係は論外であるし、また、新しい共認空間に相応しい『中身』が問われるのはいうまでもない。)

「学び合い」とは、共認原理にもとづいた授業。

そこでは、「仲間からの期待圧力」「なんで思考」が子供たちのやる気を引き出すということ。

そして、教師の認識力・追求力がよりいっそう問われることになるのですね!

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