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平塚らいてう から時代を読み解く

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写真は ここ [1] から

元始、女性は実に太陽であつた。

平塚らいてう(1886年生まれ)が『青鞜』発刊(1911年)に寄せた有名な冒頭の句である。その後、
真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。」と続く(そして、さらに続く [2])。

当時、女性は、男性若しくは社会的に従属的な存在、若しくは依存するだけの存在に押し込められていたことを物語っているのではないだろうか。

時代背景をおさえてみると・・・

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明治から戦後にかけて、日本は激動の時代を経てきた。
歴史の授業では明治・大正時代は、戦争を中心に、若しくは駆け足で習ったように思う。江戸時代は何かと注目を浴びるが、明治・大正は意外と知らないこと、また、戦後の“GHQの焚書”(参考 [3])などにより残された文献も少ないのではないだろうか。

戦争が主ではあるが年代を押えると、
1853年 ペリー黒船来航
1858年 日米修好通商条約締結・・・開国
1868年 明治元年
1889年(明治21年) 大日本帝国憲法公布
1894年(明治27年)~1895年(明治28年) 日清戦争
1904年(明治37年)~1905年(明治38年) 日露戦争
1914年(大正3年)~1918年(大正7年) 第一次世界大戦
1937年(昭和12年)~1945年(昭和20年) 第二次世界大戦

鎖国を解いてから僅か30年後(明治に入ってから21年後)には、大国である清に攻め入り(正確には朝鮮を巡る戦い)、さらに20年後には第一次世界大戦へ突入する。

想像以上に社会(国)は揺れ動き、国家はもちろんのこと家庭もそれに引きづられる形で影響を受けていたと思われる。

もう少し、社会情勢を見てみると

女性の社会参加――参加から参画へ [4]

から(以下、抜粋・編集) 

1890年(明治23):治安警察法の前身となった集会及政社法により、女子の政治活動は、政談演説会を聞きに行くことさえ不可能になった
このころはまさしく、第1回衆議院総選挙が行われる半面、教育勅語が発布された年でもあった。その後、民法典論争を経て、 

1898年(明治31):儒教的色彩の強い家制度を含む明治民法が施行

1899年、高等女学校令施行。

1900年(明治33):治安警察法が公布され、その第五条で女性の政治結社への加入と政談集会への参加が禁止されている。

こうして、家庭内の良妻賢母を最終目標とする女子教育の方針は着々と固められていく。高等教育への門戸は閉ざされ、中等教員養成を目標とする女子高等師範以外は、女性のための国立の高等教育機関はつくられていない。

1911年(明治44):『青鞜』発刊

1920年(大正9) :この平塚らいてうと市川房枝を中心として新婦人協会が結成された。日本で女性に参政権を求めた初めての婦人団体であり、治安警察法第5条の一部改正(集会への参加のみ)を悪戦苦闘のあげくかちとっている。

また、ここでは、

 20世紀の日本における女性の社会参加の源流は、1911年(明治44)、平塚らいてうらによる青鞜運動にたどりつく。この運動は、当初から女性解放の社会運動をめざしたわけではなかった。それにもかかわらず、女性個人の才能を世に問う文芸誌『青鞜』の発刊は、女性の個の確立、個性の伸長、男性への依存性からの脱却宣言となった。

と書かれているが、これは、現在の男女同権を始めとした女性解放運動論者が都合よく結び付けただけであり、彼女のその後の活動、そして、発刊に寄せられている文中の

然らば私の希ふ真の自由解放とは何だらう。云ふ迄もなく潜める天才を、偉大なる潜在能力を十二分に発揮させることに外ならぬ。』

から
本来女性がもっている潜在的な能力(役割)が発揮されていない(抑圧されている)ことに対する発信であることが読み取れる。

一方で、
平塚らいてう の家庭は、どうであったのか?
反米嫌日戦線「狼」(醜敵殲滅)〝平塚らいてう〟と『青鞜』の時代 [5] より

〝らいてう〟を育てたのは近代的な家庭主義であった。
父、平塚定二郎は明治憲法の作成にも協力した会計監査院の官僚。母のつやは夫の勧めで洋装で女学校に通学。小学生の頃に引っ越した家には、シャンデリア、裸婦の絵画、洋書の棚、テーブルと椅子の生活であった。

ところが、1890(明治23)年に教育勅語が発布(未だ一夫多妻制であったのに)、日清戦争で世の中が変わりつつあった頃、平塚家の内情も様変わりする裸婦の絵画が教育勅語の額に変わる。テーブルや椅子も片付けられ、洋装にしていた母は、裾を引く着物姿にかわっていった。もちろん学校に行くことはなくなり、良妻賢母よろしく家事をする女郎と化していた。

『青鞜』に寄せられた内容は、
家庭に押し込めようとする父母に対する反発とも見てとれるが、発刊に対する女性の反応が高かったことをみると彼女の家庭事情によるものというより、戦争を中心とした国家の施策や社会情勢に大きく影響され、その抑圧からくる発信(提示)と言えそうである。

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