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江戸って、面白い!~町人の様子~

sodanさんに続き、江戸シリーズです
今度は江戸の住人の半数以上を占める「町人」の様子です。

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「江戸の気風」

などと言われますが、その実態に迫ります。

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その一、

フリーターが多かった

杉浦日向子さんの『一日江戸人』によれば、江戸時代、生粋の江戸っ子の中には定職に就かない人間がずいぶんいたということです。結婚して子供がいる男でさえ、食う物がなくなるとひょこっと町に出ていって薪割りなどをやって日銭を稼いでいました。まさに食うために必要なだけ働くという生き方ですね。
 そういってもまだ信じない人がいると困るので、この話の裏を取るために、別の資料も参照しましょう。江戸時代には人別帳といって、いまでいう住民票みたいなものが作られていました。南和男さんの『幕末江戸社会の研究』に、様々な例がわかりやすく解説されていますので、それを使います。
 慶應元年(1865年)、麹町12丁目。143人の戸主(世帯主)のうち、38人が日雇い仕事で暮らしていました。約26%です。同年、四谷伝馬町新一丁目では96人中13人で14%。こちらは住民に武士が多い土地柄なので、数字が低くなっています。慶應3年、宮益町では172人中69人で40%にものぼります。さすがに現代の日本で、世帯主の4割がフリーターという話は聞きません。江戸の世では、結婚してもフリーターでいるのがおかしくなかったのです。

「江戸っ子は宵越しの銭は持たん」てな感じでござんしょうか?

その二、

長屋で共同生活をしていた

◆江戸町の空間とくらし
 町の住民は、家持(いえもち)、家主(いえぬし)、地借(じがり)、店借(たながり)の三つに分けることができる。家持は町屋敷を所持する地主で、所持屋敷に居住する者をいう。家主は、家守(やもり)・大屋(おおや)ともいい、地主の代理人として、地主に対しては地代・店賃徴収の責任を、幕府に対しては管理下にある町屋敷とその住民(店子(たなこ))のすべてについて責任を負い、五人組(ごにんぐみ)の構成員となり、町政の運営を行った。

~中略~

 地借は地面を借りて家屋は自己資金で建てた者で、比較的経営基盤の安定した中層以上の商人が多かった。店借はさらに表通りに面した店舗を借りる表店借と、表通りから路地を入った棟割長屋を借りる裏店借に分けられる。表店借は地借と同様に中層以上の商人や親方職人が多かったが、裏店借は日雇(ひよう)・棒手振(ぼてふり)・小職人などのその日稼ぎの下層民であった。裏長屋では、川柳に「椀と箸持つて来やれと壁をぶち」とあるような庶民の交流がみられた。地借・店借は、訴状などの公式書類にどの家主の店子であるかを明記せねばならないことをはじめ、生活の全般にわたって家主の世話になっていたので、「大屋といえば親も同然、店子といえば子も同然」といわれた。このため家主は店子に絶大な権力をふるったが、その一方では、正月の門松を立ててやったり、十五夜のときには月見の団子を配ったり、店子に適当な店請人がない場合には店請人になってやったりもした。

~中略~

文政年間(1804-18)以降にはむしろ貸店(かしだな)の供給過剰気味となり、平均1~2割の明店(あきだな)がみられ、店賃を引きさげて店子を確保しなければならないような状況もみられた。とくに裏店借の場合には1年にもみたないで転宅していく例も多く、これは彼らの生活基盤の不安定さを示してもいるが、むしろ江戸市中どこでも就業の機会があり、あるいは条件のよい貸店を求めての転宅であったと考えられる。

     歴史探訪 日本史編 [1]より

なるほど、江戸持代からフリーターの街だったのですね。
多数派である裏長屋の住人は、大家を中心に共同体的な生活をしていた様子が伺えます。

徳川家康は、江戸の街づくりのために、商人を集め、町人を集めた。
この系譜をもつ町人達は、はなから根無し草であり、家も土地もない。にもかかわらず、大らかでいられたのは、長屋を中心とした共同体的な生活基盤があったからでしょう。

一方で、表通りの商店から連なる裏長屋は、ほぼ商人の所有物であり、「江戸の町で一旗上げよう」等と言う抜け道も無かったことも、共同性を残していた条件だったのではないでしょうか?

こんな町人達が明治への大波の中でどのような転換をしていくのか?
追求していきましょう!!

続きをお楽しみに~!!!

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