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家制度から家族制度への移行期(江戸から明治へ)

江戸時代、士農工商という誰もが聞いたことのある身分制度がありますが、その内訳(人口比率)は、概ね以下のようだったといわれています。

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画像はこちらのサイト [2]からお借りしました。

幕末人口約3200万人中:武士6~7%、農民80~85%、町人5~6%、神官・僧侶1.5%、穢多・非人1.6%

即ち、学校の日本史などで習う江戸の町というのは、概ね日本の全体人口のわずか2割(武士・町人階級)の一面的史実に過ぎず、凡そ8割を占める農民の生活実態はあまり知らされていません。

文献が少ない、等の理由ももちろんありますが、武士・町人といった都市居住者はどちらかというとマイナー選手 であり、本当の日本の集団性や規範を保持していたのは、むしろ農民達 😀 であったと考えられます。

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江戸から明治への移行期の中で、庶民が最も影響を受けた部分は、法治国家への転換、即ち国家による強制的な圧力によって、各村落の規範が次々に解体されていった時期でもありました。

というのも、江戸時代において8割を占める農民達は、農業という共同作業が生活の基盤であり、その共同性の保持こそが、村を守り人々を守る上での規範を成立させていた基盤でもあったからです。

共同性を保持する上での規範には、当然男女関係や子育て規範等も含まれており、その内容は村ごとに様々であったと言われていますが、どの村落にも共通しているのが「よばい」といった大らかな性的関係を容認する村人全体で充足を分かち合うものであったようです。

村内婚、あるいは時に村を越えた村外婚もあったようですが、村外婚といっても隣接する村同士、今で言う群のレベルでの友好的な関係における婚姻規範に留まり、おおよそ隣近所顔見知り同士で共同作業を中心とした生涯相互扶助がごく当り前の社会で生活が営まれていたのでしょう。

生まれながらに、期待される役割も規範もあり、かつ慣れ親しんだ人々と暮らしていたのですから、多少の不満が時に生じようとも、それを越えるだけの安心感や充足感に包まれた日々を送っていたのだと考えられます。

現代の価値観で見れば、「ヨバイ」といった村の男女が複数交わりあうような風習は野蛮なものと見なされがちですが、明治期に法体系が整備され、各個人という単位で戸籍制度や婚姻制度を強制的に義務付けられて以降も、大正・昭和の時代まで「夜這い禁止令」が度々発令されたとの文献を見る事が出来ます。

これは、即ち村落のレベルでわざわざ法治国家の取決めに従う理由など見つからず、共同で村を守っているのであればむしろ村の規範を維持する事の方がよっぽど理に適っていた、という事なのだと思われます。

しかし、明治以降は都市を中心とした市場拡大の道へと大きく舵を切り、共同体的基盤を失った根無し草の武士・町人階級を中心とした「家族制度」に組み込まれる人々が徐々に普及し始め、結果的にその後の核家族誕生へと繋がる布石ともなりました。

当初は、家族制度といっても大きくは家規範を色濃く残したものであり、本人同士の合意よりも家父長間の取決めによる許婚(いいなずけこん)が主流であり、どちらかと言えば市場拡大期において、力のある豪農や商家の格を維持するための政略婚の色彩が濃厚でしたが、その後「お見合い婚」⇒「恋愛婚」へとその様式も変化を遂げていきます。

この辺りの状況については、多くは口伝の範囲でしか語り継がれていない為に、一部の文献と当時の状況を論理的に検証していかなければならない部分でもありますが、「見合い婚」の事例については
阿蘇たにびと博物館 [3]」等のサイトで、民族文化の集積などの取組も見られます。

当時を知る貴重な先人の体験談、面白いので是非ご一読を。

さて、これらの風習は殆どが西洋からの輸入物に過ぎず、日本古来の規範が同時に解体されていった歴史とも繋がる形となっている訳ですが、なぜ日本の共同性が解体され、個人主義といった非充足な人間関係、あるいは核家族といった密室家庭が築かれるようになってしまったのか?

この江戸から明治への移行期という部分を、もう少し細かく分析してみる必要がありそうです。

続きをお楽しみに!

かわいでした。

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