- 感謝の心を育むには - http://web.kansya.jp.net/blog -

学校ってどうなってるの?57~明治から昭和の日本語力

tuzurikata1.jpg

「学校ってどうなってるの?」シリーズでは、昨今の学力低下の原因と突破口について追求していますが、今回は、かつての普通の日本人の書いた文章を探してみました。
なかなか見つからなかったのですが、いくつか紹介してみたいと思います。
・・・現在とは外圧状況(→同化圧力)が異なるため当たり前かもしれませんが、日本語力の差というだけでなく、社会意識のに違いも明確に読み取ることができると思います。

応援よろしくお願いします

 

<明治~大正時代の小中学生>

■以下「「『書く』行為の社会史」—明治・大正期の幼年向け雑誌にみる年齢階梯的共同意識の変容—」  [1]より引用させて頂きました。 

箪笥

箪笥ハ抽出アリテ衣裳ヲ入ルゝ道具ナリ(*注1)

これは明治26(1893)年発行の雑誌に載った尋常小学校3年生の作文である。次にもうひとつ、同じ尋常小学校3年生の作文を見てみよう。

下水道

私の家のおもてヾは、下水道ほりがはちまきをして一しやうけんめいにほつてゐます。ふちへ土をつゝみのやうにもり上げてゐるので、人が通るのにふべんです。(中略)車ひきはたてふだを見て西へ行つてしまひます。大さうきのどくです。(*注2)

ふたつめに挙げた作文は大正10(1921)年発行の雑誌に載ったものだが、前者と比較してみるとほぼ同年齢が書いたにもかかわらず、かなりの差異が見いだされる。

■以下「日臺一宇」 [2]より引用させて頂きました。

最近、明治40年代に夭折した中学生の遺した草稿類に接した。手紙の控は毛筆、こなれた候文体で、日記や作文はペン書きの口語体となっている。
作文の中に、概要次のようなものがあった。

明治42(1909)年夏、地理の教師から来年の6月頃は何かあるといわれていたが、果せるかな、2ケ月後(おく)れて日本が韓国を併合した。寺内統監のやり方はなかなかうまかった。韓国は日本に屋敷養子に来て朝鮮と名を改めた。皇帝は李王となった。李王は聡明であると新聞屋はいう。ある新貴族が自殺をしかけてやめた。自殺をしとげるような人があれば、どうして併合なんぞされるものか。韓国はわがものとなった。僕も行ってみたいような気持もするが、行ってみたって何になるものかとも思う。

百年近く前のもので、中学生の素朴な感想が表れており、何となくなつかしさを覚える。また、学習メモには、「台湾征伐」につき次のように記している。

我ガ漂流民台湾ノ生蕃(せいばん)ニ殺サル由テ日本ハ其罪(そのつみ)ヲ問ヒシニ清ハ生蕃ノ地ヲ化外(けがい)ノ地ナリト答ヘシヲ以テ日本ハ西郷従道ヲ総督トシテ之(これ)ヲ平定セシム 然(しか)ルニ急ニ清ハ異議ヲ唱ヘ撤兵ヲ要求ス 結果=大久保利通清国ニ使シテ論難ノ末清ハ償金五十万両ヲ出シ和議ヲ結ブ(明七)

<昭和初期の小学生の作文>

■以下「豊田正子の「綴り方教室」 [3]より引用させて頂きました。

※1937(昭和12)年、葛飾区に住む尋常小学校4年の少女が書いた作文。
作者は貧しいブリキ職人の娘で、戦後は作家として活躍。(作家なので当時の一般の人ではありません・・・)

父ちゃんは「おれがな、平田さんの家へいったら、あいにくと。だんながお湯へいって、るすなんだよ。あのだんなときたら、とってもお湯はなげえんだから。
で、おらァ、おうせつしつへいって、ストーブであたりながら、おくさんとくだらねえせけんばなしをしてたんだ。そうして、一時間ばかりたつと、だんなさんがかえって来たからよ、かんじょうをもらってさ。げんかんの戸をあけてみたら、おらァ、ぎくっときたな。
もう、自転車がねえんだ」といった。

<10代の特攻隊員の遺した言葉>

■以下「ウェブ石碑 名言集」 [4]より引用させて頂きました。

・散る花の 二度と咲くとは 思はねど せめて残さん 花の香りを
中島昭二 神風特攻隊員 海軍少尉 特攻戦死。享年18歳。

・日の本に 見事咲きし 桜花 嵐の庭に 雨の如散る
 靖國の 庭に競える 若桜 我も後(おく)れじ 散りて開かん
井辰勉 神風特攻隊 昭和20年4月12日沖縄周辺にて特攻戦死。享年18歳。

・神雷の 英挙を抱き 我はゆく 米鬼微塵に たたき砕かん
 身はたとへ 一度に一艦 砕くとも 七度生れ 夷敵砕かん
佐藤善之助 神風特攻隊桜花隊 昭和20年4月16日沖縄にて特攻戦死。享年18歳。

・君がため 捨つる命は 惜しまねど 後の世に傳(ひろ)ふ 名こそ惜しけれ
佐藤直人 旧日本海軍軍人 昭和19年6月19日マリアナ海域にて戦死。享年18歳。

・おくれじと 咲きて散りなむ 大空に みくにを護る 我若桜
 かずかずの 思ひをのこし 若き身の 國の守りに 今日ぞ出で立つ
佐藤貞志 神風桜花特攻隊員 昭和20年6月22日特攻戦死。享年18歳。

・我が青春を 國に捧げし 丈夫(ますらお)も 人の子故 情け知るなり
山田惠太郎  神風特攻隊員 昭和20年4月7日沖縄海域にて特攻戦死。享年18歳。

・君のため 命惜しむな 若桜 散るべき秋に 散って香ばし 
新井義雄 旧陸軍少尉 特攻隊 昭和20年6月3日沖縄周辺にて特攻戦死。享年18歳。

・ 身は砕け 桜の花と 散ろうとも 霊や皇國(みくに)の 空を護らん 
杉本德義 神風特攻隊 昭和20年4月3日沖縄周辺にて特攻戦死。享年18歳。

・親思ふ 心にまさり 報國の 心は正に 鉄よりかたし 
松本傳三郎  神風特攻隊 昭和20年4月17日沖縄海域にて特攻戦死。享年18歳。

・悠久の 大義に生きん 若桜 只勇み征く 沖縄の空
松永篤雄  神風特攻隊 享年18歳

・七八度 君が為にと 生れ来て 尽すは我の 務めなりけり 
 咲けば散る 蕾と我は 知りつつも 咲かでややまん 皇御國(すめらみくに)に
櫻井光治 神風特攻隊員 昭和20年4月12日沖縄周辺にて特攻戦死。享年18歳。

・海ゆかば 水漬くかばねと 知りながら 空ゆく我は 雲染むかばね 
田中繁晴 旧海軍軍人 昭和20年4月24日フィリピン島にて戦死。享年18歳。

・咲く花の 春の盛りを 待たずして 嵐に散るも 唯君の為
高島昭二 神風桜花特攻隊 昭和20年5月4日沖縄方面にて特攻戦死。享年18歳。

■以下「英霊の言乃葉1」 [5]より引用させて頂きました。

私捨公就

陸軍中尉 木本 修 命

歩兵第百十四聯隊
昭和十七年二月十一日
シンガポール島ブテキマにて戦死
山口県豊北町出身 二十三歳

 吾、人身を享けてより二十三年。

 君恩、親の恩、師恩、万物の恩を一身に受け、一として返すを知らず。唯、帝國軍人として國民最大の誇りを持ち、微力を尽くし得たるは、無上の光栄、本懐なり。あゝ吾が喜び何に比すべき。然れども報恩の一をも算じ得ざるを強く深く痛む。

 時は刻一刻として移る。人の良心は即ち神にして永劫の時間に没入し人の死は一点も残さず。吾が身窮むるとも吾が心永遠に君國に尽さん。

 大元帥陛下の御為、祖國のために、一身一家を捧げ、私を捨てて公に就かれんことを祈る。隊長殿、部下諸氏、祖父、父母、姉上、恩師、大変お世話になりました。弟妹よ、何の役にも立たず兄たるの資格なきを心から詫びる。何一つ心配なかりし吾生涯を喜ぶと共に、一億國民の一層私心を捨てて共々に生き、國家の弥栄に貢献されんことを祈る。

 以上、吾が生涯の信念と御礼を記す。

遺詠

陸軍伍長 宮本 宣胤 命

昭和十九年九月十九日
ビルマ・モーライクにて戦死
山口県出身 三十七歳

再びも命かしこみ海原を

  越えて射向ふ時は迫りぬ

命としあらば火にも水にもと思へとも

  父の命よ何処に坐さむ

ビルマ高原に咲きし桜を瓶に生け

  病室にありて年を迎へむ

垂乳根の母の命よ小休止の

  路上の夢に出て来給ひし

伸びし髭を剃りつゝ思ふ故里の

  妻は 髭伸びしを好まざりしを

昭和五十五年四月靖國神社社頭掲示

<kota>

[6] [7] [8]