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学校ってどうなってるの?53「教科書の歴史」

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明治5年学制発布とともに「学校制度」が開始されて下等小学4年、高等小学校4年の尋常小学校が寺子屋を母体に徐々に整備されていきました。今回は明治以降の学校で使用された「教科書」についてご紹介します。

以下参考;近代教科書制度からみた教科書の変遷-国語-(画像も拝借しております)

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■明治時代
1.自由発行・自由採択
 
図1;
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 明治6年 文部省編纂「小学読本」「田中義廉の翻訳になるもので、原本はアメリカのウィルソン・リーダー(M.Willson:The Readers of the School and Family Series)である。」 
 
図2;
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明治7年 第3単語図(掛図)

2.開申(届出)制、認可(許可)制時代
 
図3;
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明治17年 小学読本 「初等科1学年後期から使用するもので、当時アメリカから移入されたペスタロッチ主義の開発主義教育方法を取り入れている。児童の直観や経験を重んじる、当時最も進歩的な教科書といわれている。」
 
3.明治検定制時代
 
図4;
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明治19年 文部省 「読書入門」

図5;
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明治33年 坪内雄蔵(逍遥) 「国語読本」 尋常小学校用
 
4.国定教科書時代
 
図6;
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明治37年 「尋常小学校読本」「通称「イエ・スシ読本」と言われ、「発音ノ教授ヲ出発点トシテ、児童ノ学習シ易キ片仮名ヨリ入リ」とあり、単語の前にカタカナの単音と絵との組み合わせから入ってる。 」

■大正~昭和時代
 
1.国定教科書時代
図7;
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大正7年「尋常小学読本」
 
図8;
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昭和8年「小学国語読本」 『「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で始まる通称「サクラ読本」と言われ、この本から挿し絵、表紙とも色刷りが採用された。巻頭が、単語からではなく「サイタ サイタ・・・」の文で始まる、いわゆる文章法の採用は教科書史上特筆されることであり、新鮮な挿し絵の色刷り相俟って人気が高い教科書である。』
 
以上、「近代教科書制度からみた教科書の変遷-国語-」 [1]さんよりお借りしました。
 
で、これらとは別に江戸→明治→昭和の大きな変遷が分かる資料を見つけましたので、ご紹介します。
 
■広島大学図書館所蔵 教科書コレクション [2] 
 
図9;
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明治5年 女私用文 小学科用 第2編
 
図10;
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昭和24年 一ねんせいのこくご 上
 
この二つを比較してそのあまりの違いにびっくりしてしまいました。先の明治~大正~昭和の小学読本の例と照らしてみると、
 
①明治5年以降、後に伊藤博文の下、文部大臣になる森有礼は、米国人マリオン・スコットを師範学校講師に招きいれ、彼のもたらした「ペスタロッチ主義」による教科書作成を進め、絵入りの単語学習から入る国語教育を確立した。この方式は戦後~現在に至ってもあまり大きくは変わっていない。
 
②一方江戸時代の寺子屋で読み書きの教材として使用された、「往来物」は、明治になっても「女私用文」のように「手紙例文集」としても教材化されていた。なお、これは大人の手紙をそのまま教材として活用しているようで、極めて高度な文法、単語に触れる事となる。
 
③その後も比較的な難解な「文章」物を教科書とする流れと①のような「単語」+「絵」を主体とする教科書の流れが並行してるようです。
 
しかし、文科省「学制百年史」 [4]にもある通り、
 
「師範学校においてはアメリカの小学校そのままといってよい教育方法がとり入れられた。その際坪井玄道が通訳の任に当たって、スコットは英語で教授をした。当時アメリカの小学校で使用していた教科書・教具・器械等はいっさい注文してとりよせ、また教場内部の様子も全くアメリカの小学校と同じくし、これらの図書教具の到着を待って授業を開始したのである。その後これらの図書が翻訳され、教科書として刊行された。(略)当時アメリカはすでに近代学校の教育法を普及させ、学級教授法はあらゆる学校において経営の原則として採用されていたのであった。わが国では明治時代になって近代的な学級を編制し、ここに教師を配置して学級教授の方法を採用することとなったのである。 スコットによってわが国に導入された新教授法には当時アメリカで盛んとなっていたペスタロッチ主義の実物教授の方法が含まれていた。」
 
だ、そうで、教科書も「文章」ものではなく、「近代教科書制度からみた教科書の変遷-国語-」で紹介された「絵入り単語」から入る教科書が普及していったようです。
 
また、この流れの中心となった森有礼は、福沢諭吉らと雑誌社「明六社」を興す人物です。そしてその機関紙「明六雑誌」 [5]誌上では、「欧米の諸制度・思想を紹介して、それを文明国標準とする一方で、旧来既存の日本の考え方や制度に批判を加えようとする姿勢である。」

更には
  
「国語国字問題は、文明開化を推進するにあたって、遅れた文明とされた東洋文明から離脱し、西洋文明に仲間入りする方法の一つとして論じられた。中国文明の影響を脱すること、文字を簡単にして読めない人を無くし文明化をはたすというのが、その理由であった。明六社誕生以前、まずこの問題について意見表明したのは前島密で、彼は漢字を廃止し、平仮名を英語のように分かち書きにすることを提唱した。しかし、『明六雑誌』創刊号に掲載された西周の「洋字を以て国語を書するの論」は、より過激であった。漢字どころか仮名文字も廃し、「洋字」、すなわちアルファベットを用いたローマ字で日本語を表記すべきと主張した。」
 
だ、そうです。
 
なにやら雲行きが怪しくなってきましたが、これらは一体どういうことなのでしょうか?(以下次号に続く)

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