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学校ってどうなってるの?43 何故明治維新?

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明治時代の学校制度を理解するために、明治の時代状況を押えておこうと思います。そこで、幕末~明治維新に焦点を当て「何故明治維新?」を考えてみようと思います。
 
 
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多くの人々が幕末~明治維新を「日本の夜明け」として志士たちの活躍を熱く語っています。しかし、そうした「熱」がやはり事実を見誤らせているとも思います。まず、幾つかのサイトの記事を紹介します。
 
「薩長連合は、国際金融資本によって周到に仕組まれたもの」 [1]
「明治維新の背後に見え隠れするロスチャイルドの影」 [2]
「第2次長州征伐とその背景その6(薩長同盟締結)」 [3]
   
そして一般論としての幕末~明治維新の要点を列記します。参考;Wikipedia幕末 [4]
    
・嘉永6年(1853年)米国ペリーの黒船が浦賀に来航、大統領国書で開国を迫る。翌年(1854年)再来したペリーと日米和親条約を締結(鎖国が終焉)。更に日露和親条約も締結。下田・箱館を開港し両国の総領事が置かれ、米国はハリスを派遣して通商条約締結を要求。
・病弱の将軍家定に子がなく後継問題が。安政5年(1858年)大老に就任した井伊直弼(彦根藩主)は、弱体化した幕府建て直しのため条約問題と後継問題の解決へ。井伊は勅許の降りない日米修好通商条約を独断で締結。同様な条約がイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結ばれる。また将軍職については、紀州慶福を後継に決定し慶福は家茂と改名。反対勢力を粛清する井伊の強権(安政の大獄)に反発した水戸、薩摩藩浪士は井伊を暗殺。(桜田門外の変)
 
・当時長州藩は公武一和策であったが、藩内クーデターで首謀者の長井が失脚、以降長州藩は尊王(幕府ではなく天皇を尊ぶ)攘夷(異人排斥)の最過激派へ転換。萩(長州)藩農民の子で下級武士に養子に入った伊藤俊輔(後の初代内閣総理大臣伊藤博文)は当時長井の暗殺を画策していた。
・薩摩藩島津久光が、幕政改革を志して兵を率いて上京。薩摩への帰国途中英国人に斬りつける(生麦事件)。
 
・尊王攘夷派の過激公卿が、長州藩の勢力を背景に将軍に上洛を命ずる。文久3年(1863年)家茂は将軍として200年ぶり(3代家光以来)に上洛。来る5月10日の攘夷決行を約束。当日、長州藩は外国船に砲撃し攘夷を決行
・生麦事件の賠償がこじれ薩摩、英国間で戦争が勃発(薩英戦争)。鹿児島市街の一部が焼失。
 
・長州藩兵が上京。京都守備の会津・薩摩軍と戦うが敗北し、逆賊として京から追放される。同じ頃英米仏蘭の連合艦隊が下関を攻撃。長州はこれにも敗れさらに窮地に。
・逆賊となった長州への征伐が発令。参謀西郷隆盛(薩摩藩)は開戦を回避し降伏条件を承認させる。
 
・長州藩内で旧攘夷派の粛清が続く一方、高杉晋作らが挙兵し再び藩論を反幕派へ奪回。
・慶応2年(1866年)薩長同盟結成。
 
・幕府は同年2月に第二次長州征伐を発令。しかし、長州が幕府軍を圧倒。戦時中家茂は病死。徳川宗家を相続した慶喜は一転して和睦。慶喜は将軍宣下を受ける。薩摩・長州は隠棲中の岩倉具視らと工作、クーデターにより、大政奉還。1868年王政復古の大号令で従来の将軍・摂政・関白などの職が廃止され、天皇親政の総裁・議定・参与からなる新政府樹立を宣言。(この三職制度は翌年閏4月の政体書(統治機構について定めた布告)で廃止され太政官制度(立法・行政・司法の機能を備えた最高行政機関)へ。更に1885年(明治18年)に太政官制度を廃止して内閣制度へ)。
 
・西郷らはその後も浪士を集め騒動を起こし幕府側を挑発。江戸の薩摩藩邸の焼き討ちを経て幕府軍と薩摩軍が戦争へ(鳥羽伏見の戦い)。官軍が薩長軍、幕府軍が賊軍(勝てば官軍)となり結局幕府軍は敗北。慶喜は江戸へ脱走(干支をとって「戊辰戦争」)。
・明治新政府は、「五箇条の御誓文」を発布。江戸で慶喜は恭順謹慎を表明。江戸城は無血開城、徳川家は江戸から駿府70万石へ移封。
 
・不満とする幕臣たちは北関東、北越、南東北など各地で抵抗を続けたがいずれも新政府軍が勝利。幕府敗残兵を集めた箱館の五稜郭を占拠。翌明治2年(1869年)新政府軍に降伏し戊辰戦争が終結。その間、薩摩・長州・土佐・肥前の建白により版籍奉還され、諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名は知藩事となり、家臣とも分離された。明治4年(1871年)には、廃藩置県が断行され、幕藩体制は終焉。
 
倒幕の中心勢力は見ての通り薩摩藩、長州藩です。江戸の幕藩体制は、大名を藩主とした藩と中央政府である徳川幕府の二重統治でした。そして外様大名と呼ばれる徳川家臣ではなかった大名の藩である薩摩、長州は、江戸からかなり遠いところにあって、幕府にしても容易ならざる大名であったことが伺えます。更に徳川幕府のこれら大名への経済制裁的な圧力でこれらの藩の財政は窮状に陥っていたようです。
 
当時長崎の出島から西欧の商業、文化、思想などが唯一入ってきますが、薩摩、長州は実際欧米人との接点も多かったでしょう。15世紀から始まる西欧の大航海時代は植民地化の時代で、ペリーが来航する19世紀後半は既にその末期に当たります。西欧はアジアへ進出し、ペリー来航の直前には英清がアヘン戦争を起こしています。
 
何故、明治維新か?
 
と考えてみた場合、こうした列強諸国が日本へ加える強い圧力や工作を見過ごしてはならないと思います。グラバー商会はロスチャイルド系の貿易商社で、薩摩藩経由で長州藩に武器(鉄砲や大砲、軍艦など)を売却しています。
 
武器を購入する資金も彼ら西欧商人からの借金でした。当初薩摩、長州は互いに反目する関係でしたが、両者とも列強諸国との戦争を通じて攘夷を断念し同盟を結んで倒幕へ動きます。特に長州などは国賊にまで落ちた上に列強からも攻撃され瀕死の状態でした。そうした「もう後が無い」薩長が一転して倒幕の力をみなぎらせるのは、列強との戦争を通じて同じ列強からの資金→武器供与を受けたからです。また、グラバー商会はこの間薩長の人材を英国に密航させてもいます(その一人が伊藤博文)。
 
彼らが倒幕に成功すれば新政府の中心となることも容易でしょう。そうしたことを当時の国際金融資本が目論んで、戦争で負かしておいて言うことを聞くように仕立て上げ、資金を貸し出して武器を売却していたのです。金や武器を持たされた薩長などは、「これで幕府を倒せる」「新しい日本が作れる」と意気込むでしょうが、これこそが彼らの思う壺で、内戦の広がる日本の国内では、幕府も各藩も薩長同様に様々な西欧の商人から借金をして軍備増強に躍起になっていました。
 
確かに「このまま何もしなければ日本は植民地になってしまう」と考えるでしょう。しかし、「戦争して幕府を倒して列強に負けない新しい日本を我々が作る」というのも国際資本の思惑と離反するものでもないでしょう。彼ら国際資本にしてみれば植民地でも親欧政権でもどちらでも良いのです。その意味で国際資本家と植民地を持ちたがる西欧国家は、必ずしも同じではないのです。当時の国際金融資本家は、戦争をかぎつけるとその国の戦費調達の為の国債を引受けて利益を得ていました。 
 
 
日本では未だに「明治維新」「日本の夜明け」などと称して封建体制から近代国家へ移行していく過程を「熱く」語りますが、内実は欧米列強、国際金融資本の工作の結果であることも一つの事実です。薩長が中心となって明治政府を樹立した日本は、その後あっという間に西洋に学んで着物、髷を捨て、思想的にも西欧化して日清戦争、日露戦争、第一次、第二次大戦へと進んでいきます。これら「近代化」も国際金融資本の思惑通りでしょうし、当時の近代化、資本主義化というのは、殖民地を持ちそこからの収奪や権益によって自国の利益をあげる植民地主義に他なりませんでした。ただ、明治期の日本の近代化のスピードはすさまじく、あっという間に第2次大戦の敵国に成長していくのは計算外だったかもしれません。

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