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ニート問題の本質は何?

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「ニート」という言葉が話題になったのは2004年くらいからだったでしょうか。若者の就労意欲の衰退は大きな社会問題につながるとして問題視されました。最近はあまり話題になっていないようですが、ついこの前にあった佐世保の銃乱射事件の犯人はニートでしたね。

「ニート」といえば、引き篭もりと同義に捉えられることも多く、どちらかというと社会に不適応な層という見方が主流で、意識調査などによる分析でも「人間関係が苦手」・・・という感じで括られたりします。これはこれで事実なのかもしれませんが、上記の事件などが起きたりすると、いっせいに否定的な意識に固まってしまいます。

政府や各地方自治体なども、「ニート対策」を掲げていろいろやっている?ようなのですが、何か変わったという気はあまりしないのは、そもそも本質的な問題がどこにあるのかがはっきりしていないからではないでしょうか?

そこで、あらためてニートや引き篭もりが増えた原因を探ってみたいと思います。

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ブログ「平成理想主義」 [2]さんから、管理人さん本人のニートに関する意識を紹介します。

私は以前、映像系の業界で制作管理業務をしてました。それは昔から興味を抱いていた職であり、業績としても別の会社のラインから管理職として誘いが掛かる程度には認められていました。しかしその仕事も結局は辞めて、いまはいわゆるニートとして暮らしています。勿論実家住まいですから母親が夕飯を作ってくれもしますし、風呂にもただで入れます。一人で占有できる部屋もあります。

ただし昼食、あるいは朝食はほとんど外に食べに行きます。母親が寝ていることが多いからです。そのときに食事代は自分の貯金から出します。欲しいものがあった場合も当然貯金から捻出します。

もしこのままニート暮らしが継続して、いつしか貯金が尽きたならば、私はバイトを探すでしょう。もし父親が何らかの理由で稼げなくなったなら、あるいは家庭が私のニート暮らしを許さなくなったなら、私はバイトよりもっとたくさん稼げる職を探して、自立の道を模索するでしょう。状況によっては家族を扶養出来る方法を模索せざるを得ないのかもしれません。
既に多くのサイトで指摘されているように、私は現在、生きるために稼がねばならないほど切迫した状況にありません。その状況に対して私は、これからも甘んじていくでしょう。
結局それがニートなのではないでしょうか。

いま自分の置かれている状況において、自分が好いように生きていくために必要最低限のことだけやるということ。そのために親なり周りの支援を求めるのであれば、それはいわゆるすねかじりなのでしょうが、多くのニートは自主的に生きる道を模索していると思いますし、実践しているとも思います。それが日本社会の枠組みから外れていると言うのであれば、いっそ徴兵制度を経済界に導入してみたらどうですかとでも皮肉りましょうか。消費税は毎日納税してますがね。

ニートという現象それ自体は日本がそれだけ平和だという象徴であるとも思いますが、それ以上にこれまた多くのサイトで言われているように戦後資本主義の方程式が崩壊しつつある証拠だと思います。少なくともいまの時代を若年として生きていく立場の人間にとっては、ニートとして暮らしていくに充分な環境が整っていることだけは確かなのではないでしょうか。
資本的な豊かさを初めから用意されているのが私たちの世代です。それは生きていく上での選択肢が多様であるということ。いやむしろ多様すぎるからこそ、新しい可能性を模索する準備期間たる“ニート”が必要なのではないでしょうか。

この記事からわかったことは、「ニートとして暮らしていくに充分な環境が整っている」という社会状況を押さえる必要があること。そして管理人さんが言っているように、「戦後資本主義の方程式が崩壊しつつある」という視点は重要だと思います。確かに今や市場はガタガタ、まさに資本主義の方程式が崩壊しつつあるように、時代は大きな転換点を迎えています。 🙄

ニートの否定視とは、この資本主義的意識からの見方だといえますが、この状況認識からすれば、それでは答えを出すことができないといえます。逆にいえばフリーターやニートや引き篭もりなどの発生は旧い社会の崩壊の現れであり、その彼らの意識を捉えて、新しい社会に何が求められているかを追求することこそが必要なのだと思います。

一方でニートに共通する「人間関係が苦手」の原因がどこにあるかを探る必要もあります。上記の社会状況の変化に伴い、家庭環境がどのように変わってきたかという視点でも追求していきたいと思います。

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